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【800字エッセイ】愛とは何か?

オジおばさんは、自分の恋愛に関していうと30代を失われた10年と呼んでいる。

前にも少し触れたが、30代は全くといっていいほど、恋をしなかった。

恋と愛は別物だとオジおばさんは考えている。

恋=憧れ、自己陶酔
愛=情、執着

とでも言えるだろうか。
どちらも相手が必要であり、相手への気持ちとそれをどう向けるかで考えられそうだ。

恋も愛もそのもの自体は変化しないが、「憧れ」「情」については時代と共に変化するものだと思う。
つまりは、その時代の「常識」によって「憧れ」も「情」も変化するということだ。
「舞姫」を書いた森鴎外は、主人公(自伝とも言われているが)の愛する女性を日本に連れて帰らなかった。追ってきた女性にも確か会わなかった記憶がある。
なんて薄情な、と思うかもしれないが、家制度が色濃く残る当時の日本にとっては常識的な行動であった。

平安時代の垣間見や夜這いについても、現代においては犯罪になるが、当時の常識では当たり前なのだ。

常識に左右される「情」であると分類される「愛」のかたちは、どんどんと変化するものなのだ。
ストーカーと言われる行為は、相手への「情」が強すぎるあまりに、そしてその人とその「情」に「執着」するが故に起こる行動だと考えられる。

愛が「情」と「執着」であるならば、エロスとアガペーとの関係はどうなるか。
エロスは、恋と愛を繋ぐものだと思う。憧れでもあり情でもあり、自己陶酔でもあり執着でもある。

アガペーの愛こそ本当の「愛」であるというが、そうであろうか?人間愛、自己犠牲の愛、家族愛…
これらも間違えば、自己陶酔にもなり執着にもなる。

失われた10年時代に、愛だの恋だの語ってる若い子によく言っていた言葉がある。

「あなたさ、その人の下の世話できるの?」

愛とは「無意識」に自分の中に醸成されるものなのかもしれない。何も考えなくてもその人やものに対して接することができる。空気みたいな存在が本当の愛なのかもしれない。

「自己陶酔」と「執着」はいつの時代も人々を苦しめる。大昔から、国が違ってもなんら変わらない。

だからこそ、恋愛はいつの時代でもどこの国でも、形を変えながら存在し続ける厄介でもあり、心の拠り所でもあるのだろう。

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