文化人類学の思考法

以下、文化人類学レポートより


 「僕は、ファッションがとっても好きなんです。だって文化とか歴史とか、そういったものを人間にはなくてはならない〈衣服〉 に反映されてるでしょ?」  私は、趣味はなにかと問われたとき、こう答えていた。しかし、文化人類学の講義を受け、この言葉の愚かさや醜さ、そし て「文化」というものを理解していないことに気付かされたのだ。
   まず、文化というものを考えるときに、自分とは何なのかを知っておく必要がある。私の場合、現代の日本人であり、九州の田舎で生まれ育って3年前に東京に引っ越してきた。親は母親だけをもち、わが家は性の話題もオープンにする性教育の 盛んな家庭で、いまでも母は知らない男の人とデートに行ったりする。なぜ自分のことをよく知る必要があるかというと、自己と他者(自分のバックグラウンドと他人のバックグラウンド)の間には必然的に〈差異〉があり、自分と同じ価値観を他者 も同様に持っていると決めつけてコミュニケーションをとるのは、極めて危険であるからだ。
  ここで一つのエピソードを紹介しよう。プライベートでは会ったことのないクラスメイトと飲みに行くことになった。お酒 も進み、ディープな話をすることになる。そこで私は、一夜限りの関係をもった出来事を話した。相手はなぜか怪訝な顔をし ていて、どうしたのと問うと「付き合った人以外とするなんてありえないでしょ。」と失望している様子である。ええ!だれで もそんなことくらいするやろ!誰も傷つけてないし、うちの母親だって結構してるぞ!内心そう思い、「いや、大人はみんなし てるよ」と少し上からの意見をのべてしまい、さらに気まずくなってしまった。
   このように、J・ピーコックが定義する「文化」を体現する出来事が、上京してから頻発している。今まで過ごしてきた集団 メンバーから学習され共有された自明で極めて影響力のある認識の仕方と規則の体系が異なる人と対話することが多くなり、 ここで初めて「文化」というものを実感した。そうして文化の違いについて考えることが多くなると、趣味は何かと問われた ときにいつも言っていたあの言葉が、大変危険で間違っているのだと認識した。
   では、どこが間違っていたのだろう?もう一度はじめに提示したカギ括弧を見てみてほしい。「人間にはなくてはならない〈衣 服〉」という部分。よく考えると、ナミビアのヒンバ族は衣服を必要としていない。だからこの言葉は、ヒンバ族には共感され ないだろう。そして、「服は必要不可欠」という価値観をもったままヒンバ族と交流していくと、先程紹介したエピソードのよ うにトラブルを招く可能性がある。「世界では服を着る人のほうが多いし、服を着るのが普通でしょ?」とでも言えば、相手は 憤慨するに違いない。自分の価値観が絶対的だとするエスノセントリズムは非常に危険である。先程のエピソードや、ヒンバ 族に対する想像を通して、私はフランツボアズの文化相対主義を支持しようと思った。
   以上を踏まえて、将来異文化で仕事をするときにどのような心構えでいるべきかを考えてみよう。まずは、決して自分の価 値観を押し付けないこと。そして相手の価値観をよく知り、それを受け入れること。自ら異文化を実践し、自分の文化に取り 入れようとしてみること。以上の3つのことが大切なのではないか。これは、外国人と仕事をするときのみでなく、日本人同 どうしの対話でも同じように心がけておけば、良好な関係を築くことができるだろう。しかしながら、文化相対主義が絶対正しいわけではないかもしれない。常日頃からどんな思考法が正しいのかを熟考し、正 解を追い求めていくことが大切なのではないか。様々な経験を通して、文化相対主義に帰依せずとも人間関係を良好にする方 法を探し求めたい。思考法の取捨選択と創造、それこそが私たち人間が生きる意味なのだから。

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