トイレは中にある方がいい
どこでも住めるとしたら。
季節ごとに、過ごしてみたい街はある。
夏のフィンランド、春の山の麓、夏の鎌倉、秋の京都(冬は雪は見たいけれど、雪国に住みたい気か湧かないので浮かばない)。
でも、住む、となると、そこにいる人々との関わりが含まれてくる。無人島で住むのじゃなければ、自分の生活を回していくのに、その集落が死なないために、そこでの役割も果たさなければならない。
ハレの日ばかりではない、ときには煩わしささえ感じる、やりとり。
だから、キラキラしてない時も、過ごしやすい家、過ごしやすい環境が良い。
家は、木でできて、風が通り、冬は暖かく夏はヒンヤリ気持ちよいリビング。ふかふかの布団と美味しい食事。兄弟と家族達。
そして、トイレは家の中にあること。
今の日本で、外にトイレがあるお家は大分減ったと思うが、私が子どもの頃、友達の家も、自分の家も、トイレが家の中になかった。だから、夜トイレに行くのが怖くて、オネショしてしまったこともあった。渡り廊下とトタン屋根を父が取り付けてくれたものの、冬は寒いし、小窓からの隙間風や真っ黒な便器の中が怖くて、日が暮れてからは一曲歌いながら用を足していたことを覚えている。
外国のトイレも色々で、トイレの扉が適当なところや、低い壁で囲まれただけとか、外、つまり何も無いとこで用を足す場合もある。
今の家は、人目も虫も野生の動物も、心配しなくていい、暖かいトイレだからとても気に入っている。
住み続けられる環境で言うともう一つ。
子どもが通学時に乗っているバスで寝過ごしそうになったら、起こしてくれるような、のんびりだけど優しい人々の住む街。
私の娘はうっかり屋さんなもので。
例えば、受験する学校の最寄り駅が、各駅電車しか停まらないところなのに、受験当日快速電車に危うく乗りそうだったり。
自己責任、かも知れないけれど。
彼女が誰にも気づかれなくて、車庫にいっちゃうとか、怖いから。
気づかれずにバスに残されて亡くなった子どもの話を聞くたび、どうして誰も、その子に気づかなかったのだろう、声をかけなかったのだろうと怖くなる。
娘の担任の先生によると、今の小学校では、教室に落ちているゴミを自ら拾う子はいないと言う。衛生面なのか、役割分担なのか、知らないけれど、人ひとりの関わる範囲が、以前より小さくなったと感じる。
過干渉は嫌だけど、ひとりぼっちも嫌。
ワガママなのかもしれないけれと、電車やバスでうたた寝ぐらいは、できるところがいいなあと思うのだ。
屋内トイレとうたた寝。
あとは、海の見える場所。