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近江歴史研究フィールドワーク① 大谷吉継の首塚
名古屋にある人権擁護ファシリテーションの仲間たちと一緒に近江地方のフィールドワークに行って来た。「ゆいネット・ナゴヤ」と名乗る私たちのグループは、名古屋市教育委員会生涯学習課とタイアップし、毎月1回自主的な学びの場を設けながら、2月には5回シリーズで一般市民を対象に「人権擁護ファシリテーター養成講座」を開催している。
私たちは年に1回、10月の定例会を日帰りや宿泊型のフィールドワーククを実施している。これまでは、近いところだと名古屋城近辺や熱田神宮近辺、岡崎城近辺などの歴史的に人権問題に関わる場所を巡ったり、遠方だと大阪・奈良・京都の被差別部落の問題を抱えた地域で活動した。2年前は岡山のハンセン病者の収容施設「長島愛生園」を訪問し、昨年は甚目寺のお寺を訪問し、国のハンセン病者隔離政策に抗ってハンセン病の治療に一生を捧げた小笠原登医師の実家であるお寺を訪ねた。
今年は、滋賀県を訪問し、雨森芳洲という朝鮮通信使の通訳を務めた方の研究をメインに、人権について考える旅をした。
関ヶ原の合戦は、徳川家康の東軍が勝利を挙げた。西軍の総大将である石田三成は、親友であった大谷吉継に豊臣方に味方し、自身を助けてくれるように切願した。大谷吉継は出身地が同じ近江国だったことから、石田三成とは盟友であったと伝えられ、秀吉には石田三成と共に計数の才に長けると認められ重宝され、一緒に行動する機会が多かったことから友情を培ったのではないかといわれている。石田三成との間には深い友情が存在したとされ、友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道関係であったとする記録も存在している。
天正15年(1587年)、大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者たちは病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み、気軽に話しかけてきた。その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる。
関ヶ原の挙兵の直前、三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(徳川家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」と諫言したという。本人を前にして「お前は横柄だから」と率直に言って諫言していることから、吉継と三成はお互いに言い合える仲であったことがわかる。他にも「(三成は)智慮才覚の段に於いては天下に並ぶ者無しであるが、勇気は不足していて決断力に欠ける」と忠告している。
吉継は業病を患っており、容貌が変質したと伝えられ、時代劇で描写される大谷吉継は顔を隠し、家臣に木の板に載せてもらいながら戦っている。ここでいう業病とは当時の仏教観で前世の罪業に因する病として忌み嫌われていた病気という意味で、非常に治りにくい病気・あるいは不治の病の総称として使われたが、特に相貌に著しい病変を起こすハンセン病であったのではないかと考えられる。業病により、自分の命が短いと確信していた大谷吉継は、三成との友情を大切にし、西軍に味方したのだ。
西軍側は兵の数では優勢だったが、どういうわけか全く戦いに参加する意志のない味方もいれば、最終的に西軍を裏切って大谷吉継を目掛けて反旗を翻した小早川秀秋の陣もあり、大谷吉継は自害に追い込まれる。自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん。」と言って切腹したが、この祟りによって秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に狂乱して死亡に至ったという噂がある。
今回訪れた「大谷吉継の首塚」は、関ヶ原での小早川秀秋の裏切りによって、西軍の敗北を悟った吉継が、敵に首を渡さないよう、家臣の湯浅五助の介錯で自刃し、自分の甥にあたる僧・祐玄が吉継の首を錦の袋に入れて、敦賀への逃亡の途中に、この地に埋め隠したと言われている。訪れてみてわかったことだが、今も地元の人々により、大切に守られ、供養されているようだ。
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