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映画「おくりびと」と青木新門氏

 もう15年ほど前になるだろうか。日本の映画賞を総なめにし、米国のアカデミー賞にも輝いた映画「おくりびと」が思い出された。

 「おくりびと」で象徴的なのは、納棺師となった夫・本木雅弘に、妻である広末涼子が「けがわらしい!」と叫ぶシーンだ。映画の原作とされている「納棺夫日記」を著した青木新門氏は、自身の納棺師としての経験の中で、叔父から「親族の恥」と罵倒され、次のように語っている。

 職業に貴賤はない。いくらそう思っても、死そのものをタブー視する現実がある限り、納棺夫や火葬夫は無残である。昔、河原乞食と蔑まれていた芸能の世界が、今では花形になっている。士農工商といわれていた時代の商が、政治をも操る経済界になっている。そんなに向上しなくとも、少なくとも社会から白い眼で見られない程度の職業にできないものだろうか。

 日本は古来よりハレとケガレの文化を持っている。ハレはまさしく「晴れ姿」という言葉に残り、ケガレはそのまま「汚れ」とか「怪我」という言葉に表れ、忌み嫌われるものとなっている。しかしながら、日本の文化の中では生と死は表裏一体となって存在し、その生と死を分けるものが水と塩である。だから、相撲では土俵に上がる際に水を飲んで塩をまく。葬儀のあとにはお清めの塩があるのもその流れだ。青木新門氏の語りは続く。

 長い間、私たちは死を忌むべきものとして、日常生活から切り離して隠し、見えないところに遠ざけてきました。だから本当の意味で、死の実感に乏しい。頭の中で想像しているだけなので、極端に美化したり、恐れたりするのでしょう。

 30代半ばで納棺師になり、3,000近い遺体と接してきました。たまたま求人のあった葬儀社に入社したところ、死体に白衣を着せ、髪や顔を整えて納棺する仕事を任せられました。最初は遺体を扱うことを、後ろめたく感じていました。本来なら見たくない、見ないはずの死を受け止める仕事なんて汚らわしいと。親族から「一族の恥。辞めろ」と言われたこともあります。 しかし、出会う遺体はみな、それぞれに美しかった。正確に言えば、死を通して、生きていることのすばらしさを教えてくれました。寿命が延びても、いつか必ず死ぬ。死から目をそらしては生きられない。ありのままの死に姿を見てきたことで、それに気付くことができました。
 死期を悟って、死を受け入れたと思える人の遺体は、みな枯れ木のようで、そして柔らかな笑顔をしています。亡くなる直前まで自宅などそれぞれの居場所で、それまでと変わらぬ日々を過ごしてきた人の多くがそうだった気がします。

 青木新門氏の言葉を借りれば、体や心が死ぬ時を知り、食べ物や水分を取らなくなり、そして死ぬ…それが自然な姿なのではないだろうか。今、そういう死に姿は少ない。医師は一分一秒でも長く生かすことを使命だと思っているし、家族は少しでも長く生きるのが重要とばかりに「がんばって」と繰り返す。本人が死について思うことや、気持ちは聞かない。生命維持に必要な機械のモニターばかり見つめ、死にゆく本人を見ていない。私たちは大切なことを見逃し、聞き逃してきたのではないだろうか。

 映画「おくりびと」のラストシーン。笹野高史が「死は新しい旅立ちへの門だ」とつぶやく。日本人にとって生と死は切り離して考えてはいけないものなのだ。人と人の絆、家族の絆、死者と生者とのつながり、そんな当たり前のことを忘れかけていた現代人に、何が大事なのかを気づかせてくれた映画でもあった。「おくりびと」が日本でも大ヒットしたのは日本人が本来持っていた生と死の捉え方を再確認させてくれたからだと感じている。

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合同会社Uluru(ウルル) 山田勝己
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