見出し画像

GW西尾フィールドワーク② 西尾城と大給松平家

 西尾市の岩瀬文庫で開催されていた「船頭重吉の484日漂流ギネス記録パネル展」を見学した後、初めて西尾城を訪ねてみた。西尾城を幕末に治めていたのが、大給おぎゅう松平家だ。ちなみに松平家は18もあり、大給松平家は、徳川家康の高祖父松平長親の弟である松平乗元が初代となる。三河国加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を領したことから大給松平家と称する。以下の文章は、西尾市資料館の企画展「大給松平のお殿様と転封」というパンフレットを参考に書かせていただいた。

 永禄7(1564)年、4代親乗が長年対立していた徳川家康と和睦し、以降は大給松平家という有力家臣として徳川家を支えた。江戸時代になると老中や大阪城代といった要職に就任し、幕府政治の中枢で活躍した。4代将軍徳川家綱を補佐した老中・松平乗寿のりなが、8代将軍徳川吉宗の享保の改革を支えた老中・松平乗邑のりさと幕末期に老中となった松平乗全のりやすなどが知られている。


 江戸時代には幕府の命令で大名の領地が替わることがあった。これを転封、所替などと言い、江戸時代初期には頻繁に行われたが、中後期になると少なくなった。転封は単独の大名ではなく、複数の大名(主に譜代大名)が対象となった。理由は様々で、失政などによる懲罰的なもの、幕府の役職の就任に伴うもの、外様大名の監視を目的としたもの、軍事的な目的によるものなどがあった。ひとたび転封となると大名は慣れ親しんだ領地を離れ、見知らぬ領地に家臣やその家族などを引き連れて移動した。それはまさに大規模な「お引っ越し」であり、大変な苦労があった。

 
 大給松平家は西尾藩主になるまでに11回も転封を繰り返し、西は唐津(佐賀県唐津市)から東は山形(山形県山形市)まで、中には浜松(静岡県浜松市)・亀山(三重県山市)・淀(京都府京都市)のようにわずか数年という所もあった。10代松平乗邑の頃は特に多く、鳥羽(三重県鳥羽市)・亀山・淀・佐倉(千葉県佐倉市)と4回行われた。度重なる転封も明和元(1764)に松平乗佑のりすけが山形から西尾へ移ってからは落ち着き、明治2年(1869)の版籍奉還まで5代にわたって西尾藩主をつとめた。

 大給松平家の転封形態は様々なパターンが確認できる。
  ■ 新しく藩が成立したことによるもの
  ■ 他大名の改易に伴うもの
  ■ 他大名の転封と連動して行われたもの
  ■ 2家の大名同士で領地を交換するかたちで行われたもの
  ■ 3家の大名の間で領地を交換するかたちで行われたもの
 岩村(岐阜県恵那市)・浜松・館林(群馬県)・唐津(佐賀県)への転封では石高の加増があり、浜松・佐倉(千葉県)・への転封は老中や大阪城代など役職就任によるものだった。また、東海道に面した交通の要衝亀山、京都防衛の転から軍事的重要地とされた淀への転封は幕府の大給松平家に対する信頼の高さがうかがえる。


 大給松平家の転封には藩士だけでなく、刀装具のつば職人・国友家も付き従った。亀山以降、淀・佐倉・山形・西尾と移り、それぞれの地で鍔を製作している。国友家は戦国時代に鉄砲の有数な生産地であった近江国国友村(滋賀県長浜市)の鉄砲鍛治の流れをくむ。平和な江戸時代になると鉄砲生産に陰りがみえ、村の鉄砲鍛冶たちは鍛治職人として諸国へ移住したり、大名家に仕官したりした。国友家も松平乗邑が亀山藩主の時代に仕官した。

葵文様図鍔

 大給松平家の菩提寺である盛巌寺せいがんじは西尾市馬場町にある曹洞宗の寺院だ。近かったので立ち寄らせていただいた。本堂には大給松平歴代藩主の位牌が安置されているとともに、幕末期に老中を務めた藩主松平乗全のりやすと妻くみの墓碑がある。残念ながら本堂には入れなったが、松平乗全夫妻の墓碑には手を合わせることができた。

大給松平家菩提寺の盛巌寺


 天正18(1590)年、上野国那波(群馬県伊勢崎市)にて松平家乗いえのりが祖父親乗ちかのりと父真乗さねのりの菩提を弔うために創建した。山号(久昌山 )は親乗、寺号は真乗の戒名からとっている。
 
 盛巌寺は大給松平家の転封に付き従い、そのたびに城下に建てられた。盛巌寺のような大名家菩提寺が転封に合わせて移る背景には、2つの理由が考えられた。1つ目は大名家と物理的な距離が生じると疎遠になり、援助が厳しくなってしまうということだ。2つ目は、寺が城下の侍屋敷地に建てられており、侍屋敷地に次の大名の家臣が入ると孤立してしまい、経営が困難になるからだ。菩提寺にとって、寺院を維持するうえで檀那の大名家とのつながりはとても重要だったのだ。 

松平乗全夫妻の墓碑

 愛知県民でありながら、西尾城を訪れるのは初めて。新緑に映える二の丸天守が美しかった。

いいなと思ったら応援しよう!

合同会社Uluru(ウルル) 山田勝己
私の記事を読んでくださり、心から感謝申し上げます。とても励みになります。いただいたサポートは私の創作活動の一助として大切に使わせていただくつもりです。 これからも応援よろしくお願いいたします。