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近江歴史研究フィールドワーク③ 朝鮮通信使の通訳:雨森芳洲の生涯 その1 人となり
ゆいネット・ナゴヤのフィールドワークのメインが雨森芳洲について学ぶことだった。かつて高校生で日本史を学んだ際、朝鮮通信使が徳川将軍のお祝いなどのために日本を訪れたことを学んだはずだが、当時の教科書には1~2行程度の説明しかなく、「朝鮮通信使」という用語をかすかに覚えている程度だ。
1990年(平成2)年5月、来日した当時の韓国の盧泰愚大統領は宮中晩餐会の答礼のあいさつの中で「270年前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は誠意と言義の外交を信条としたと伝えられます…」と称賛された。上杉鷹山や橘曙覧もケネディ大統領やクリントン大統領に教えてもらったように、私たちは日本の偉人を外国の方から教えてもらっている。
また、2002(平成14)年3月に訪韓した小泉純一郎首相は昼食会のスピーチで「誠信の交わり」の雨森芳洲のことばを紹介された。雨森芳洲は、日韓両国の友好の灯火として輝いているのだが、私は恥ずかしながら雨森芳洲のことを全く知らなかった。社会科教員として恥ずかしいばかりだ。
雨森芳洲は、1668(寛文8)年5月、近江の国雨森郷(現在の滋賀県長浜市高月町)に生まれた。名は、通称は東五郎といい、芳洲はその号だ。芳洲の祖先は、「近江浅井家の豪族でかって雨森をもって采邑(=領地)となす。因みて氏とすという。」と芳洲自身が語っている。戦国時代浅井家に組み入れられた雨森氏は、小谷城の落城とともに全国に四散した。このことについて芳洲は、「余のごときも三代四代以前は世に雨森守といって官をもって姓となしたものだ。しかし、かれらも打ち平らげられ一二の子孫が死をおそれて民間に入って幸いに余卵を保ちえた。その人を念うごとに胸が病む。」と話している。
芳洲は、父清納の医者の子として生まれた。幼少から父について学問に励み、京都で医学を学んでいたが、儒学にも関心が高く、18歳の時に江戸に出て、儒学者木下順庵の門に入り本格的に儒学を学んだ。新井白石らとともに「木門の五先生」といわれ、芳洲はそのリーダーといわれた。
そして、長崎で中国語を学び、釜山で三年かけて朝鮮語を取得し、朝鮮話の会話入門書「交隣須知」を著した。江戸時代、三ヶ国話が話せる国際人だったのだ。中国語は生涯学び、80歳を過ぎてからは和歌の道を志し、最後には2万首近くの歌を遺した。このように生涯学習のシンボルといった向学の一生を送った人だ。ぜひ一生涯学習の姿勢を私も継承したい。
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