半田亀崎フィールドワーク
先月の記事に、半田赤レンガ倉庫にて大正時代のドイツ兵捕虜から日本人がパンをはじめとする様々な製造技術を教えてもらったという講座を受講したことを書かせていただいた。その午前中の時間を利用して半田市の亀崎地区をフィールドワークした。
まずは、海に向かって建てられた神前神社へ。社伝によれば、神武天皇は東征の途中に伊勢の国から船でこの地に上陸した。この逸話による神嵜が亀崎《かめざき》という地名・神社名の語源とされる。上陸地点は天神洲と名付けられ、小祠を建てて産土神として崇敬されたのが神前神社の創始である。社殿は尾張藩成立直後に海から現在地に遷宮し、同時に慶長17(1612)年、神武天皇が使ったという伝承のある井戸も現在地に遷宮した。この井戸は「神の井」と呼ばれ、拝殿の裏に残っている。
亀崎は、尾張徳川家初代徳川慶直の藩政を指揮し、その確率に功績を残した御附家老成瀬隼人正の給地であった。
1543年(天文12年)、緒川城主の水野信元が、知多半島南部へと勢力を伸ばした際に、宮津城の新海淳尚を攻めて宮津城を落として亀崎城を築き、稲生七郎左衛門政勝が初代城主となる。稲生氏は伊勢国稲生城主であったが、故あってこの地に来たという。政勝は初め重勝といい、その子新七郎政清もこの亀崎城主となった。政勝は亀崎に水軍を起こし、緒川城主水野忠政に仕えた。その後、政清、重政と続き、徳川の水軍として活躍した。これに先立ち、信元の妹・於大の方が三河松平家に嫁ぎ竹千代(後の徳川家康)を産んでおり、その縁から政勝の子・政国は松平(徳川)家に仕えていた。
亀崎城は三河湾の監視を行うに絶好の場所であり水軍操術に長けた政勝がこの城に入った事で水野家は三河沿岸の制海権を握る。東に遠く富士山を望む眺望の地は衣浦の海を監視するに最適な要害の城であった。この間、桶狭間合戦や織田信長の伸張、本能寺の変などを経て水野氏と稲生氏は徳川家臣に組み込まれ江戸時代を迎えたが、その頃には亀崎城は廃城となっていた。
亀崎城は、丘陵が海に向かって突きだした先端部を利用して築かれた城で、城跡は、神前神社の裏山にあり、現在は亀崎児童公園と なっている。この公園の東南隅に「亀崎城趾」という石碑があり、僅かであるがこの辺りに土塁が残っていた。地元の人でもこれが城跡だとはわからないかもしれないが、規模の小さな城であることは確かだ。丘陵に続く北西部を除いて、三方は極めて急な斜面となっていて、なかなか堅固な城であり、城跡からの海の眺めも良かった。
亀崎城址の跡には素敵な碑があった。「亀崎月」というタイトルで、「萬代も 変わらぬ影を 亀崎の 波に浮かべて 月照りにけり」という和歌だ。大正天皇の大嘗祭に際し、宮内省御用係の歌人子爵黒田清綱氏が詠まれたものだ。
その後、立川美術館を訪れ、立川流彫刻と亀崎潮干祭の魅力を伝える美術館を訪問した。2016年、ユネスコ無形文化財に登録された「亀崎潮干祭」。毎年5月3日・4日に半田市亀崎町で行われるこの祭りは、5輌の山車が干潮の海浜に曳き下ろされる。その祭りの勇壮さはもちろんですが、特筆すべきは比類なき山車の美しさ。その道の名人が集まり、最高峰の彫刻や刺繍で圧倒する亀崎の山車は、「動く美術館」と評されるほど貴重だ。ここでは妻と一緒に「山車乗車体験」をしてみた。意外と楽しかった。
ほかにも亀崎にはすごいものがある。JR亀崎駅は、明治19年3月に現存する最古の建物と紹介され、現役の駅舎としては日本最古のものだという。
妻との楽しいフィールドワーク。そんなに遠くない場所で妻と一緒にステキなフィールドワークができて良かった。
次はどこへ行こうかな。