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「きれいにする」ことの大切さ

 お寺を訪れると、なぜか身の引き締まる思いがする。建物の中から庭の隅々までちり一つ落ちておらず、砂利もきれいな円形の文様が施されているからだろうか。何とも言えない清浄感が全身に押し寄せてきて、知らず知らずのうちに心の中にまで染み込んでくる。一瞬、心の中が空になるような気持ちになり、身体全体から汚れが払拭されているようにも感じる。清潔な環境の中に置かれると、身も心も清らかになったと感じるのである。私のお気に入りのお寺は、岐阜県多治見市にある古刹「虎渓山永保寺」だ。大学生の時、中学時代の恩師に連れて行っていただき、紅葉とイチョウの美しさに魅了され、以来毎年秋になると訪れている。

 人間は汚濁を嫌い、清を好む。それは物理的ないしは肉体的にのみならず精神的にもである。にもかかわらず、汚くても平気でいる人がいる。この私もその一人なのかもしれない。いまこの文章を書いている周りには、たくさんの書類や書籍が雑然と置かれている。おかしい…小学生の時の私はいつも学習机の引き出しの中をキレイに整理できていた。週に1回は自宅の庭をきれいに箒ではき、母に喜ばれたものだ。なぜ自分の周りが散らかっていても平気な自分になってしまったのだろう。

 そんな私とお寺の凛とした空間との違いは、どこから出てくるのだろうか。汚くなっている人は、自分が持っている、さまざまな欲を実現するために忙しくて、自分と自分の周囲を磨き続けるひまがない。要するに、自分の欲には忠実だが、ほかの点では怠けているのだ。そうか、私は怠けているのだ。きれいにしようとしないので汚くなり、その汚さに慣れてしまう。このままにしていると、堕落の道を辿る一方なのかもしれない。そのうちに、心の中までにも汚れが蔓延していき、心の卑しい人に成り下がっていかなければよいが…。

 自分の心を清浄に保つためには、自分の身の回りから清らかにしていき、徐々に自分の心まで浄化していく。悟りを開いた人であれば、周囲が汚濁に満ちている中にあっても、心頭を滅却することによって、自分の心も清らかなままに保つことができる。だが、凡人の私には、そのような芸当は無理だ。目に見える外のものをきれいにして、その影響を受けながら、目に見えない内へと同化させていくほうが楽である。人間は心という立派な働きを持っているものがありながら、目が見えるばかりに目に見えるものに頼る。耳が聞こえるばかりに耳に聞こえるものに頼り、においをかぐことができるばかりに、においに頼る。五感に左右されているので、精神の機能を独立して働かせるのが至難の業となっているのである。ただの言い訳かもしれない。

 それが普通の人にとっての現実であれば、それを無視しないで利用するのが、最も現実的である。一足飛びに心を清らかにしようとするような無謀なことをするのは、私にはできそうもない。そのための出発点として最も簡単であると同時に非常に効果的なのがやはり掃除なのだろう。掃除は中途半端にしたのでは効果が小さい。人の目につくところだけきれいにしたのでは、自分がきれいだとは感じない。表だけきれいにして裏をそのままにしておいたのでは、胸を張っていることはできない。

 もちろん、掃除を徹底的にするといっても、掃除を念入りにするあまり、ほかのことをする時間がなくなるのは行き過ぎだ。それは偏執狂的であって、掃除は気持ちよく一日を過ごし、心を清らかにしていくための手段であることを忘れている。本末転倒となり、心の清らかさと余裕を失う結果になっている。自分でできる限りの努力をしたら、後は運を天に任せるというバランス感覚も必要である。人間には何一つ完全にできることはない。その点を悟って、ある程度のところで諦めなくてはならないのだろうか。

 人生は不完全の連続である。完全を目指すのは身の程知らずというべきで、完全にできるだけ近づこうとする姿勢を堅持するのが、人生をつつがなく円満に送っていくコツであろう。しかしながら、これも不完全な自分自身への言い訳かもしれない。

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