地球の未来を担う子どもたちにいかに学ぶ権利を保障すべきか
日本は義務教育ということもあり、多くの人が学校に通うことができ、世界的にみても高水準と言われている。しかし、世界の学校に通えていない5歳から17歳の子どもの数は3億3000万人以上と言われている。教育は、子どもだけでなく、大人にも必要だ。今世界に読み書きができない15歳から24歳の人が何人いるかというと、10人に3人の5,900万人が読み書きができないと言われている。
教育の問題は、命に関わる。例えば病気になってしまった際、薬を飲むことで治る状況でも、「薬」と書いてあるものを選べ、何錠飲めべばよいのか正しい服用方法などを理解することができなければ、その人は亡くなってしまうかもしれない。教育が行き届いていないということは、計算もできない。買い物に行っても、おつりを誤魔化されるといった被害を被る事もあり得る。安心な日常生活を送れず、読み書きや計算の能力を求められる仕事には就けない。能力を求められる仕事にも就けないということは、収入が上がらず、満足いく生活を送れないという状況に陥ってしまう可能性が高いということだ。そのような生活を強いられた子どもは教育を受けることができなくなるといった形で負のループから抜け出せなくなる。いわゆる「貧困の連鎖」てしまいます。教育を受けることができない理由に環境が整備されていないことが挙げられる。お金が払えない、先生になる方法がなく、先生が学校にくることができない。学校はあっても、教材が足りないなどの状況がある。それ以外にも、お金がないため生活をするために働かなくてはならないから、戦争や紛争が起きていて、生きることに必死だから…などのさまざまな理由で教育を受けられない人が多く存在する。
日本では、上記ほど極端な学ぶ権利の侵害はない。だが、2011年に発生した東北大震災による津波と原発事故により、福島県では多くの子どもたちが避難生活を余儀なくされ、故郷の学校で学ぶことができなくなり、教育を受ける権利が著しく揺らいだ。
憲法26条は「ひとしく教育を受ける権利」を保障し、これを受けた教育基本法は「経済的地位によって教育上差別されない」と定めている。しかしながら、日本にはひとり親の貧困家庭で育った子どもや、施設で暮らす子どもたちの大学進学率はとても低い。施設出身者の高等教育機関への進学率は全国平均の3分の1にも届かず、経済的な理由から進学をあきらめる、ひいては人生における選択肢が狭まってしまう子どもたちが多い。政府は「高等教育の無償化」の方針を打ち出し、「給付型の奨学金」を検討しているが、選考基準に学力の要件等があり、ひとり親家庭等の貧困世帯にとってもハードルの高い制度でしかない。
この国には、残念ながら、親の年収に正比例した進学格差が存在する。東京大学の入学生の多くは、その出身家庭の所得が高いと聞く。これまでの日本の社会には、高等教育を受けた者は資格や収入の形で恩恵を受けるのだから、学費は本人や家庭が負担するのがあたりまえだという考え方が根本にあった。しかしながら、OECD諸国を見て分かるように、グローバル化やIT革命に伴い、仕事に求められる知識・技能はそのレベルがどんどん上昇している。
では、少子高齢化が進む日本で、この進学格差を放置すると、未来はどうなるのだろうか。貧困の連鎖、貧困の再生産がますます貧富の格差を助長し、社会に分断をもたらす。それは、この国の社会保障を危険なスパイラルへと落とし込むことになる。逆に、高等教育機関で学ぶチャンスが誰にも平等に与えられれば、安定した収入を得る層が厚くなり、税収も増え、社会保障を支えることにもなる。親の所得の問題で高等教育をあきらめざるを得ない子どもたちがたくさんいることは、日本の未来を危険水域へと誘う「国益の損失」につながるのではないだろうか。憲法26条が本当の意味で担保される社会を築くことに、なんとか手を尽くせないだろうか。