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「もののけ姫」から考える差別 その3

 もののけ姫からはさまざまなメッセージを読み解くことができる。

 たたら場の主要労働者が女性であることに関しても、女人禁制という宗教的価値観より、生産性を優先した産業社会の象徴と読み解くこともできるだろう。また、エボシは森林開発という環境破壊もためらわない開発業者、ひいては経済的権力の象徴で、たたり神はそうした環境破壊がもたらす公害病とも考えられる。物語終盤では、近代文明と自然との融和・共生を希求している様子が垣間見られるが、これは経済発展の負の側面である行き過ぎた開発への警鐘と、自然をも操作しようとする人間のおごりを戒める警句だろう。

 物語の終盤、武士たちに襲われた「たたら場」で、二人の女性が明け方に会話をする。一人は甲六の妻トキで、もう一人は全身を包帯で巻いた名もなきハンセン病患者の女性だ。
 女性「ありがとう。とれたよ、トキ」
 トキ「やけに静かだね。夜明けを待つつもりだ」
 女性「あの若者はエボシさまに知らせてくれただろうか?」
 トキ「アシタカさまはきっとやってくれるよ。もうそのへんに来ているか   もしれないよ。あーあ、だらしない顔しちまって」
 女性「今のうちさ、寝かしといてやりなよ」
 
 女性は石火矢を修理し、トキに渡すのだが、その後のやりとりのなかで注目すべきシーンがある。女性が懐から食べ物を取り出し、トキに渡し、トキがそれを無造作に受け取って食べるのだ。包帯巻きの女性はハンセン病患者で、歴史的には差別されてきた人たちだ。歴史的現実としては、被差別者から差し出された食べ物を受け取って食べることはなかっただろう。しかし、「もののけ姫」の宮崎駿監督は、アニメの描写でそれを無造作に飛び越えた。見落としてしまいがちなこの一瞬のシーンに、宮崎駿監督の差別なき世界への願いが込められているのではないだろうか。

 尾張藩の歴史書「天保見聞名府太平鑑」巻二に次のような話がある。1841(天保11)年10月の項である。 

玄海に兵太という「非人」がいた。いろいろな芸をして銭をもらう者だったが、あるとき、西押切の榎の木に弁当箱を置いて枇杷島まで出かけたところ、近くに住む老婆がその弁当箱をとってしまった。帰った兵太にそれを告げる者がおり、兵太は中の飯がなくなってもよいが弁当箱は毎日の物なので返してほしいと老婆のところに行く。老婆は恐れ入りながら、一銭もなく空腹に耐えがたき自らの貧苦と、さらに病身の祖父に兵太の弁当を勧め、祖父が喜んで食べたことを告げ、許しを請う。兵太は弁当箱だけ返してもらい、さらに老婆の貧苦をみて、もらい集めた銭をつないで200文を差し出し、老婆に渡した。世の人は兵太の健気正直な性格を讃えた。

 甲六の妻の名前がトキだということが興味深い。これは「御斎」(オトキ)を意味するのではないだろうか。斎(トキ)とはもともと仏事そのもの、もしくは僧家の食事とされ、しばしば仏事の後にする食事を指す。食事(御斎)の場において大切なのは、身分の上下なく平等の関係を原則としたことだ。

 「食べる」ことは、生きていくうえで根源的な行為のひとつであり、その場において、差別なき世界を体現するのがオトキという理念なのではないだろうか。しかし、「食べる」という根源的行為の場において、この理念が体現されることのむずかしい現実がある。たとえば、前近代において、飢餓はいわば日常であり、多くの人が飢え苦しみ、そして死に至った。その際に飢餓に苦しむ人に対して食事などをふるまう施行がなされることもあっただろう。尾張藩の記録にある兵太と老婆の話にも、「食べる」という根源的行為における兵太と老婆の関係が見てとれる。

 歴史を紐解くことは面白く、また、宮崎駿監督がアニメ映画に込める想いというのはあまりにも深く、映画を見れば見るほど様々な学びをいただいている。                       <おわり>


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合同会社Uluru(ウルル) 山田勝己
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