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「しろうるり」って何ですか?
真乗院に、盛親僧都とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝元に置きつつ、食ひながら、文をも読みけり。患ふ事あるには、七日・二七日など、療治とて籠り居て、思ふやうに、よき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、万の病を癒しけり。人に食はする事なし。ただひとりのみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にさまに、銭二百貫と坊ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋を芋頭の銭と定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏しからず召しけるほどに、また、他用に用ゐることなくて、その銭皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計らひける、まことに有り難き道心者なり」とぞ、人申しける。
この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる物を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。
『徒然草』は、吉田兼好が書いたとされる随筆で、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つと称される。
私自身も高校の古典の授業で『徒然草』を学び、序段の【つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ】の部分を暗誦した記憶がある。
最近、何かの本で徒然草の60段に触れる機会があり、「しろうるり」という言葉に出逢った。Es Discovery Logsというサイトから、徒然草60段の現代語訳を拝借した。
仁和寺の真乗院に盛親僧都という、極めて頭の良い僧がいた。芋頭という食べ物を好んでおり、毎日のように食べていた。講義の席でも、大きな鉢に芋頭をうずたかく盛り上げて、膝元において食べながら、もぐもぐと口を動かしお経を読んでいた。病気をすると一~二週間は治療だと言って部屋に閉じこもり、気が済むまで良い芋を選んで、いつもよりたくさん食べてどんな病気でも治してしまった。人に芋を食べさせることはなく、いつも一人で食べていた。極めて貧しかったが、師匠が亡くなった後に、僧坊(住居)と二百貫の財産を相続した。家を百貫で売り払って、三百貫の財産をつくると、全てを芋代にすると決めてしまった。京都にいる人にお金を預けると、十貫づつお金を下ろして、いつも芋頭が途絶えないように計画して食べていた。しかし、他に財産を使う用途もないので、すべてを芋代にしたのである。『お金もないのに、三百貫もの大金を全て芋代に使うとは、珍しい道心者(仏道修行をする者)だ』と人々は言った。
この僧都が、ある坊さんを見て『しろうるり』と名づけた。『しろうるりとは何ですか』と人に聞かれると、『そんなことは知らない。もし、そのようなものがあるなら、きっとこの坊主にそっくりなんだろう』と答えた。
https://esdiscovery.jp/knowledge/japan/literature_ja02.html
しかしながら、「しろうるり」の意味はいまもってわからない。この盛親僧都が勝手に口にした造語なのかもしれない。盛親僧都が見たお坊さんの顔が「白い瓜」に似ていたのだろうか。「しろうり」を「しろうるり」と言い間違えたのだろうか。
盛親僧都は元から「しろうるり」という何モノかを知っていて、そのお坊さんにあてはめたのではなく、見た目の雰囲気から、いかにもそれらしい造語をでっち上げたのだろうか。
「しろうるり」としか形容しようのない顔とはどんな顔だったのだろうか。
江戸時代になると、『徒然草』は一つの学問として成立する。井原西鶴は「しろうるり」を実体のないもの、不思議なものと捉えたようで、「白うるり」として句を遺している。
白うるりとは侘人のつきあい
天竺にもしあるならば白うるり
結局、なんなの? しろうるり・・・
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