「穢れなき悪戯」に学ぶ
中学生の頃だっただろうか、授業で映画「穢れなき悪戯」という話を観る機会があった。孤児のマルセリーノは、ある修道院に引きとられて養われる。修道僧たちにかわいがられるが、マルセリーノは子どもらしいいたずらを何かとやらかして騒動を起こす。僧たちはやさしいが、マルセリーノはやはりお母さんが恋しくてたまらない。
彼はあるとき物置のキリスト像を見て、あまりにやせているので同情して、自分の食物を持っていく。そのとき奇跡が生じて、キリスト像が動き、マルセリーノの食物を食べる。それ以後、マルセリーノは飢えたキリストを養うために、食物を盗まざるを得なくなるる。炊事係の僧は特にマルセリーノをかわいがっていたが、食物が何ものかによって盗まれるのを不思議に思って見張っていると、その犯人がマルセリーノであることを知る。
盗んだ食物を食べずにマルセリーノが物置に入っていくのを、僧はつけていって覗き見をすると、キリストがマルセリーノの運んできた食物を食べ、お礼をしたいと言っている。マルセリーノは「お母さんのところに行きたい」と言い、キリストは願いをかなえてやろうと彼を抱く。マルセリーノは願いどおりに母のいる国、つまり天国に召されていく。
この映画を見て、すぐ思ったのは、この修道院において「キリストが飢えている」ということであった。もちろん、僧たちは真面目に熱心に修行していたに違いない。しかし、そのような「人間の努力」と「神の意志」の間には時にズレが生じる。キリストは修道僧たちの努力にかかわらず、不足を感じていたのではないだろうか。神が飢えていることに気づいたのは大人ではなく、少年マルセリーノだけであった。彼は神の飢えを癒すためには盗みをはたらくしか仕方がなかった。大人たちはそのことについてあまりにも無知だからであった。キリストは、この少年を誰よりも早く天国に召されることにした。
ところで、上記の話を、まったくの常識の世界で見るとどうなるであろう。ある修道院に一人の孤児が引きとられた。その子はとんでもないいたずらっ子で、その上たびたび食物を盗んだ。あんな少年がほんとうに一人で食べているのだろうかと思うほど、その子は食物を盗むのだった。たまりかねた僧たちは、とうとうその子を物置に閉じこめ、食物を与えなかった。一夜あけてみると、子どもは飢えと寒さで凍死していた。僧たちもかわいそうに思って葬ってやった。
マルセリーノのケースは、幸いにもマルセリーノと親しい僧が覗き見をして「真実」を知ったからよかったが、後半の話の場合は、一挙に新聞の三面記事を飾る「事件」になってしまうのではなかろうか。私はときに、新聞に報道される事件を見て、その背後にどのような物語が隠されているのだろうと考える。常識というものは、この世に生きていく上で必要ではあるが、恐ろしいものである。昔も今も、キリスト像が動いたり、食事をしたりする姿は見ることがないという人が殆どだろう。
しかし、現代でも、親に隠して拾ってきた小犬を育てるために、自分の食事を残してやったり、盗みに近いことをする子どもはいる。そのとき、その小犬を神の顕現として受けとめることも可能ではないだろうか。これに対しても反論があり、小犬は小犬であってそれ以外の何ものでもないとか、その上に狂犬病の恐ろしさなどを説明してくれる人もあるだろう。確かにそのとおりだし、神の顕現としての犬などというのがいるのかどうか怪しいものだと思う。しかし、時には小犬にも「魂」があり、「生きていく価値」があると思って一生懸命小犬の世話をし、可愛がる少年の方が、人生が豊かであるように私自身は思ってしまう。
大人の考える「悪」ということを子どもがしてしまったとき、その「悪」は大人の常識を超える高貴さを潜在させていることがあり得るということを、忘れてはならないのではないだろうか。