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蛇池にまつわる信長伝説

 私は名古屋市西区上小田井にて少年期を過ごした。上小田井の東の庄内川沿いに「蛇池」という池のある蛇池公園がある。友だちと蛇池で待ち合わせをし、野球をやったり、ポコペンをやったりして遊んだ懐かしい記憶がある。

 蛇池のすぐ近くに「龍神社」が祀られている。龍神社は、明治42(1909)年、40日以上続いた干ばつに対して近隣にある光通寺というお寺の住職が雨乞いをおこない、その大願当日に大雨となったことから、龍神に感謝した村民により建立されたものだという。蛇池のほとりにあることから近隣では「蛇池神社」として知られている。蓮池の北側にも、やはり同じ八大龍王を祀った龍神社がある。地域の古老によると、「堤の下は雌の龍、こちらには雄の龍が祀ってある」とのことだ。蛇池の近くには、織田信長の家臣である佐々成政の比良城があった。前述の光通寺は比良城の跡地に建てられた曹洞宗の寺院である。

 この蛇池には大蛇にまつわる3つの伝説が語り継がれている。

「信長様と蛇池」
 永禄2年(1559)の夏のことです。、福徳村の又左衛門という百姓が、大野木の知りあいの所に出かけようとして、蛇池に通りかかりました。一天にわかにかき曇り、大粒の雨が降り出し、蛇池の波が大きくゆらぎました。巨大な大蛇が堤から下りてきて、首を池に入れたからです。又左衛門は、腰をぬかさんばかりに驚いて、逃げ帰りました。又左衛門が大蛇を見たという噂はまたたく間に広まり、清洲城主織田信長の耳にも山田村の池に大蛇がでたという話が届きました。信長は、池の主の大蛇を捕えるために、近郷の百姓を集めてかいどり(=池や沼の水をくみ出して、魚などの生物を獲ること)をさせました。しかし、いくらかいどりをしても水は減りません。清水が湧きでてくるからです。気の短い信長は、裸になり、刀を口にくわえて池にもぐりました。しかし、大蛇を見つけることはできませんでした。早速村人たちを集めて大蛇を退治するために池の水をかいださせました。見守る信長は池の水位がいっこうに下がらないのに業を煮やして、自ら裸になり刀をくわえて池に飛び込みました。しかしその日は見つからず諦めきれない信長はさらに10日間ほど池を干し続けましたが、結局大蛇は現れませんでした。その後この池は蛇池と呼ばれるようになったとのことです。

「大蛇のおんがえし」
 昔名古屋の堀詰にあったお店の主人、惣右衛門さんが身重のおかみさんと山田村の池のそばを通りかかりますと子供たちが蛇をつかまえて遊んでいました。惣右衛門さんとおかみさんはかわいそうだからと助けてあげました。それから何日かたって2月7日に元気な男の赤ちゃんが生まれました。しかしおかみさんは産後の肥立ちが悪く、3日目になくなってしまいました。惣右衛門さんが困り果てているとお葬式のすんだ夜、一人の女の人が店に現れました。
「私は池の近くに住むものでおしまと申します。赤ちゃんのことでお困りと聞きました。この子が三つになるまでどうぞ私に育てさせてください。」惣右衛門さんは喜んでお願いしました。男の子はおしまさんにかわいがられてすくすくと育ち3年がたちました。「今日は2月7日、お約束どおりおいとまします」と言い、おしまさんは惣右衛門さんがどんなにひきとめてもきかず帰りました。店の番頭さんが池の近くまで送っていき振り返ると大蛇が悲しそうに池に入っていくのが見えました。番頭さんが驚いて惣右衛門さんにそのことを話しました。「あの人は池にすむ大蛇だったのか。いつか助けてやった蛇がそのお礼にきてくれたのか。そうだあの人の好きな赤飯をそなえてあげることにしよう。」

「機織り石の伝説」  
 蛇池のほとりに、仲のよい新婚の夫婦が住んでいました。昼間は、二人で野良仕事をし、夜はおそくまで嫁は機織りをしていました。疲れた体にむちうって機を織る音が夜おそくまでひびいていました。美人で働き者の嫁は、近郷の村では評判でした。嫁の評判が高まれば高まるほど、姑は嫁をにくく思うようになりました。姑は、息子が親の言うことを聞かないのは、嫁のせいだと思うようになったのです。そして、嫁いびりがひどくなりました。ひとり悩んだ嫁は、とうとう蛇池に身を投げてしまいました。嫁が亡くなった後、蛇池からは、まるで嫁が機を織っているような音が聞こえてくるようになりました。村人が嫁の霊を慰めるために、蛇池のほとりに石をひとつ置きました。その後、機織りの音は聞こえなくなったということです。                                

 織田信長と蛇池の話には続きがあることを知った。実はこの時、信長公にはある危機が訪れていた。この大蛇騒ぎの当時、佐々成政が率いる比良衆には織田信長への逆心の噂があった。そのため佐々は騒ぎの間も病を偽って清洲城の信長の御前には参上せずにいた。
 ところが信長公は、上記のように蛇池の大蛇をみつけることができなかったとあきらめた後、「佐々の比良の城は小城なれど、なかなかによき構えであると聞く。ひとつわが目で見てくれよう」と言い出した。比良衆はこれを信長公が佐々に切腹を命じにくるものと考え、困惑した。そこで、家老の井口太郎左衛門という者が一計を案じた。水上から城の外観を見せるといって信長公を船に誘い、警護が手薄になったところで船中にて小刀をもって刺し殺そうというものであった。しかし、信長公は運が強かった。比良行きを突如取り止め、蛇池からまっすぐ清洲に帰ったのである。大将というものは万事に考えをめぐらし、油断なくふるまわなければならなかったのだ。

 要するに「大将たる者、常に油断があってはならぬ」ということを言いたかったのであろう。ただし、佐々成政逆心の風説についての真偽は分らない。

 その後、佐々成政は信長のもとで功を重ね、永禄十年(1567)には黒母衣衆に抜擢され、さらに鉄砲隊の指揮官として幾多の合戦に臨んでいる。天正三年(1575)、越前攻略軍の柴田勝家の与力として越前府中に移り、前田利家、不破光治と共に府中三人衆のひとりに抜擢された。越前に移った成政は小丸城を築いて居城としたため、比良城は廃城となったとされている。

 歴史って本当に面白く、そして奥深い。

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合同会社Uluru(ウルル) 山田勝己
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