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名古屋の戦災復興に尽力した田淵寿郎~新しい名古屋のために寺院の墓地を郊外に集団移転させた人物~

 上の写真は、昭和20年5月14日にアメリカの戦闘機が落とした爆弾により焼失した名古屋城の姿である。天守や小天守、本丸御殿だけでなく、いくつもの隅櫓も焼失してしまった。名古屋城は日本で最初に国宝に認定された世界に誇る歴史的建造物であったが、木造建築の名古屋城は一瞬にして焼け落ちてしまった。
 
 名古屋にはその後も米軍による爆撃が続き、名古屋の中心部は灰塵と化した。戦災時、現在の半分程度であった名古屋市域の約 24%、3,850haが消失したと言われている。特に、江戸時代の城下町として栄えていた旧市街地を中心とした区域は50〜60%が焼失、ほぼ焼け野原の状態だった。 また、軍事工場が集積していた市の東部や南部も大きな被害を受けた。

 実は、名古屋市の戦災復興は スタートが早かった。終戦の日となった8月15日には1週間で30台の測量器具を買い入れ、9月29日には名古屋市議会で「名古屋市再建に関する決議」をした当時の市長佐藤正俊は、その責任者として戦前に内務省名古屋土木出張所長を務めた|田淵寿郎〈たぶちじゅろう〉を招聘した。
 田淵は、1890(明治23)年に広島県大竹市に生まれ、東京大学土木工学科を卒業後、内務省に入省。国内勤務の後、1938(昭和13)年、日中戦争下、中支で戦災地の復興に当たる。その後、名古屋土木出張所長を経て、 再び中国に渡る。1945(昭和20)年に帰国し、三重県に疎開していた。同年10月10日に名古屋市技監兼施設局長となり、復興局長などを歴任後、1948(昭和23)年から約10年間助役を務めた。 田淵は、1945(昭和20)年10月に政官財、学識経験者からなる復興調査会を設置し、同年12月6日には『大中京再建の構想』を発表した。これには、 100m道路を2本、50m以上の幹線道路や公園を整備することが書かれている。 12月30日に国が戦災地復興計画基本方針を閣議決定する前に、名古屋市が復興に関係するこの素早し対応が、以後の計画や事業の推進の土壌となった。翌年3月の議会では、市長が『名古屋市復興計画の基本方針』を以下のように説明している。

 人口200万人を想定したその内容は、以下の通りである。
① 現在の電車道路はすべて30m以上に拡幅、歩道は最低5m以上にする
② 主要幹線道路は幅員50m以上にする。
③ 如何なる道路も自動車交通に支障なき幅員とする。
④ 幹線道路の交差点に広場を設ける
⑤ 商店街、盛り場などには駐車場を道路沿い各所に設置する。
⑥ 高速度鉄道を南北1本、東西 1本設置する。
⑦ 国有鉄道国鉄・地方鉄道の乗り入れは総て高架又は地下とする。
⑧ 焼け跡はできるかぎり区画整理を施行する。
⑨ 国民学校(小学校)敷地は、約10,000㎡として、 道路を隔てて同面積の小公園を配置する。
⑩ 墓地は一定区へ移転整理する。

 戦災復興事業の施行区域は、焼け野原になっ た区域をほぼカバーするように、当初は4,400ha、途中縮小し、3,452haとした。区域が広いため48の工区 に分割し、事業を実施した。このため、ピーク時には、500〜600人程度の職員が従事する大規模な事業となった。 事業期間は、1946(昭和21)年度から最終の換地処分を行った1981(昭和56)年度までに36年間、事業が収束する1998(平成10)年度までに半世紀以上を要した。事業費が約1,138億円、移転戸数43,731戸、減歩率は平均22%、都心部では40%となっている。事業 前後の公共施設の状況を比較すると、道路が2.1倍、公園が3.1倍、駅前広場が1カ所から3カ所と整備が進んだこととなる。 

 このような大規模な事業が名古屋でできた理由は、大きく二つ考えられる。一つ目は、戦前に当時の市域の半分以上で耕地整理や土地区画整理事業が実施されていた ことである。このため、市に技術・知識の蓄積があり、 住民の理解を得ることも比較的容易であった。二つ目は、事業の着手・進捗が早く、1949(昭和24)年に国から 事業縮小の指令が出された時には、90%以上の仮換地指定がされており、指定された土地には次々と建物が建築され、事業の縮小はできない状況にあったことである。

  この大規模な戦災復興事業で整備された道路と公園などの公共施設などを振り返る。 道路は、2本の100m道路が有名である。南北方向の久屋大通の南側に運河があり、これと併せて、市街地を4分割して、防災帯的な役割を持たせている。100m道路の断面を見ると、真ん中が公園になっている。東西方向の若宮大通の場合、端から約10mの歩道、片側4車線の車道、真ん中の公園のグリーンベルトが50m。現在は この中に都市高速道路が高架で整備されている。反対側にも4車線の車道、そして歩道があり、全幅100mとなる。 全体の道路網は、概ね500〜1,000mの間隔で主要幹 線道路を配置し、その間に補助幹線道路を整備した。区画道路は、自動車交通の支障にならない幅員として、商業・工業地域では8m以上、住居地域では6m以上を標準として整備している。この結果、事業区域の面積に占める道路面積の割合を示す道路率は平均29%、都心部に限ると40%強となっている。公園は計画に従い、小学校と公園を隣接して整備し、市民が一体のものとして利用できるようにしている。さらに小さな「どんぐり広場」と呼ばれる子どもの遊び場も校区毎に多数整備している。

 戦前の名古屋は城下町だけにあって寺が多かった。田淵が目をつけたのが名古屋中心部のお寺にある墓地だった。名古屋の中心部の寺院はほとんどが空襲で焼け、檀家も焼けて田舎に疎開していた。焼け跡の中にそのままあったのは墓地だけだった。田淵が目をつけたのはこの墓地であった。墓地を1カ所に集めて集団墓地にすれば効果的な区画整理になり、街の美観もよくなると考えた。しかし、移転のためには集団墓地として使用できる広大な土地を探さなければならなかった。田淵が目をつけたのが現在の平和公園の土地である。当時のこの場所は水田と低い丘が続く緑の少ない場所で、旧陸軍の演習場や高射砲陣地だった。田淵は、当時の愛知県知事であった桑原幹根知事に懇請し、「名古屋百年の大計」のためにという田淵の説得に心を動かされた桑原知事はこの土地を墓地公園にすることを認めたのだった。

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