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明治155年に想う② ~明治の未成年観~

 今回は、明治という時代を「未成年」という視点で読み解いてみたい。
 明治31年、民法により初めて「未成年」が定義され、同33年、「未成年者喫煙禁止法」が制定される。当初「幼者喫煙禁止法案」という名前で18歳以下を対象に提案された同法案は、適用年齢を20歳未満に引き上げて可決される。賛成派は、学生の風紀の乱れを正す、軍隊からニコチン中毒の害を廃する、といった点を法の目的として掲げた。同法案は、貴族院では反対に合い、否決されるが、本会議では「青年風紀を維持する」必要があり、「子供」が煙草を吸いながら往来を歩いているのは、国の風紀が乱れ国民が堕落している証であるとの主張により、土壇場の大逆転という形で通過した。明治期に年少者の喫煙が問題になった当初は、「子ども」「学生」の風紀問題として問題化されたのだが、いつしか、青年層全般の問題とされ、彼らを保護し配慮することが国のためであるという意味論へと変わっていった。

 同じ「未成年」という名称を冠する「未成年者飲酒禁止法」は、明治34年の初審議から大正11年の両院通過までの実に22年間を要した。未成年者飲酒禁止法の背景には、酒の流通量が増大し、飲酒の害が問題化することが増えたことや、工業化に伴って生産性の高い「素面」の労働力の必要性を資本家が認識したことなど、近代化に伴う酒の流通と意味論の変化がある。未成年者禁酒法に反対の立場からは、酒税という税収の減少につながる法律が敬遠された。当時、酒造税が国税収入の第1位を占めており、戦費の調達に直結していたからである。未成年者飲酒禁止法成立の過程では、酒の消費者として年少者をめぐって議論が進んだ。法制定論者が、保護・教育という観点から、「発達する身体」へのアルコールの害や、就学者の飲酒の教育上の問題を論じるのに対し、反対派は、旧来の慣習や酒税収入を論拠に、年少者を切り分けて飲酒を禁止することの不利益を主張した。反対論者にとっては、年少者の心身の健全なる成長や発達は眼中になく、酒の流通による税収増に伴う戦費の調達、年少者という消費者の減少による利益の減少が目下の課題となった。年少者を消費者とみなす資本の論理を戒め、将来や明日の生産活動に備えるという勤労道徳を浸透させるべく、22年という長い議論を経て、未成年者禁酒法は正統な法として成立する。

 明治という時代を「未成年」という視点で俯瞰すると、未成年者喫煙禁止法、未成年者飲酒禁止法の制度化の理由は、未成年者の発達する身体の保護を前提としながらも、法と道徳を一致させることが国際社会へのアピールになり、それが国際社会の仲間入りを果たした大日本帝国のプライドに繋がったからだと考えられる。法制化の議論の中で、未来の労働力、兵力となることを期待しての就学率向上を目指し、より良い国民へと育成しようとする教育的論理と、酒造業者にしてみれば消費者、政府にしてみれば戦費調達のための納税者という、利潤や経済性を重視する論理との対立的な構図があった。権利の主体者としての「未成年」という捉え方はまったく存在せず、「未来の労働力」、「未来の兵力」になることが期待されたのだった。そこには、明治という時代を象徴する「富国強兵・文明開化・殖産興業」という国策への橋頭堡となる「未成年者観」があったと考えられる。

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合同会社Uluru(ウルル) 山田勝己
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