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児童福祉の父:石井十次を育てた母の一言

 「岡山孤児院」…わが国の最初の「孤児院」である。「児童福祉」という言葉さえまだなかった時代に、子どもたちに限りない愛情を注ぎ、48年の生涯を身寄りのない子どもたちのためにささげた人物、石井十次。十次が孤児救済を始めた岡山にて、その足跡を辿ってみたことがある。
 後年、「児童福祉の父」と呼ばれる石井十次は、明治15年(1882年)に岡山県医学校(現、岡山大学医学部)に入学し、病気療養と医学実地研修を兼ねて邑久郡上阿知村(現在の岡山市上阿知)に転地、診療所の代診を務めた。診療所の横には大師堂があり、ここは巡礼に来た人たちの宿になっていたが、十次は毎朝訪れては、妻の品子がつくったにぎり飯などを人々に与えていた。

 明治20年4月のある朝、男の子と女の子を連れた貧しい身なりの母親が、「私は備後の百姓ですが、巡礼途中で主人と末の子に死なれました。これからどう生きていったらよいか途方に暮れています。どうかこの男の子を先生のお手元で育てて下さいませんか。」と、泣きながら深々と頭を下げた。十次は妻の品子とも相談し、男の子を預かることにした。この8歳になる前原定一こそ、十次が生涯を捧げた孤児救済の第1号となったのだ。十次はその後も、さらに2人の子を預かることになる。夫婦と3人の孤児では診療所は狭く、やがて岡山市の三友寺《さんゆうじ》に一室を借りて移り住み、住職の許しを得て、山門に「孤児教育会」(のちに岡山孤児院と改名)の看板を掲げた。時に明治20年(1887)9月22日、十次22歳の秋のことだ。 十次は当時に日記に「 孤児のため 命を捨てて働かん 永|とわの眠りの床につくまで 」と記している。岡山孤児院は日本で最初の孤児院として、中部地方で最も古い児童救済施設「愛知育児院」設立の1年後にほぼ時期を同じくして創設された。大師堂は当時のままの姿を残し、その隣には「岡山孤児院発祥の地」という石碑が建てられている。また、大師堂の近くの大宮小学校の校歌にも十次のことが歌われている。

 石井十次は、「愛」と「祈り」と「奉仕」の精神を貫きながら、明治から大正にかけて、実に3千人を超す孤児の救済と教育に生涯をささげた。その十次の優しさと思いやりをあらわすエピソードがある。

 宮崎県の高鍋藩士の子として生まれた十次の7歳の頃の話だ。

 その年も、にぎやかに天神様の秋祭りがおこなわれていた。この日ばかりは、大人も子どもも、晴れ着をきこんでお祭りに出かけた。十次は、お母さんがいそがしい仕事の合い間につくってくれた、新しい紬の帯をしめて、 神社までやってきた。すると、大鳥居あたりで、子どもたちが集まって騒いでいる。近よってみると、友だちの松ちゃんが目に涙をいっぱいためていた。松ちゃんが縄の帯をしめているのをはやしたてているのだ。十次は、むらむらと怒りがこみあげてきた。十次は自分の帯をとると、松ちゃんにわたして、代わりに松ちゃんの帯を自分の腰にまきつけた。「これでいいんだな。」十次は顔を真っ赤にしながら、周りを取り囲んでいた子どもたちをにらみつけた。子どもたちは、あまりの十次の気迫におされて、言葉を発することもできなかった。十次は、しっかりと松ちゃんの手をにぎると、祭りの音のする方へ歩いて行った。
 日も暮れかける頃、家の近くまで帰ってきた十次は腰にしめている縄の帯を見てはっとした。遊びに夢中になって、帯を返してもらうことをすっかり忘れていたのだ。十次は、どきどきしながら、やっとの思いで家の中にはいり、うなだれてお母さんの前に立った。そして、消えいりそうな声で、松ちゃんに帯をわたすことになった今日の出来事を話した。すると、お母さんは、十次の手をやさしくつつみこんで、にっこりしながら、「それはよいことをしましたね。」とほめてくれたのだった。

 この一言が十次の心にしみこんでいった。十次の母は、困っている村人がいれば温かい手をさしのべるなど、心の優しい女性だった。十次の生涯を通じての思いやり、献身、不屈の精神は、この母に負うところが大きかった。

 『石井のおとうさん ありがとう』という石井十次の生涯を描いた映画がある。2004年に上映されて以来20年経つ。石井十次役を演じたのは俳優:松平健さんだ。石井十次を忠実に描いた素晴らしい作品なので、ぜひ多くの人に観てほしい。


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合同会社Uluru(ウルル) 山田勝己
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