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世界史から考える日本の外交 ②16世紀後半以降の対外政策

【1】豊臣政権の国際戦略 (1590年代)

1.「天下統一」の阻害となった「地域国家」外交権

 16世紀末、豊臣秀吉は強大な軍事力と朝廷の権威を利用し、天正18(1590)年までに日本列島各地の諸大名を降伏させ、日本の陸上の「領土」としての全国統一を実現した。しかしながら、豊臣秀吉にとっては、列島各地の現実を見た時、統一政策の完成とは言いがたいものだった。統一政権下に組み込んだはずの諸大名が個別に国外勢力と結んで外交や交易を行う体制が「天下統一」以降も温存されたままだったからだ。その一例として、天正15(1587)年、九州に出兵した際、大村純忠がイエズス会に寄進していた長崎を直轄化していたことがわかり、博多にてバテレン(宣教師)追放令を出すことになった。
 秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化され、長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られていることなどを天台宗の元僧侶である施薬院全宗らから知らされたとされた。天正15年6月19日、ポルトガル側通商責任者であるドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡し、キリスト教宣教の制限を表明した。

 バテレン追放令は外交政策だけでなく以降の禁教令、鎖国、キリシタン迫害までの反キリスト教的宗教政策の原動力となった。バテレン追放令以降の秀吉の書簡はキリスト教に対抗して、吉田神道の宇宙起源説を引用するなど、神国思想を意識的に構築した。り、家康もその排外主義的な基本路線を踏襲した。追放令以降も秀吉は三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの正統性を示すことによってキリスト教の特殊な教義を断罪したが、家康の発令した「伴天連追放之文」(起草者は以心崇伝)でも、キリスト教を三教一致(神道、儒教、仏教)の敵として名指しで批判している。


2.秀吉の世界ビジョン

 秀吉は、西国大名が個別に外交関係を構築していた諸外国王(琉球国、インド・ゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、朝鮮、明、高山国こうざんこく(台湾)など朝貢)に朝貢を要求した。朝貢を拒絶されると武力侵攻に及ぶと伝え、強硬外交政策を実行した。秀吉は、国内統一で利用した武威・武力の論理をそのまま外の世界でも援用した。文禄元(1592)年から朝鮮出兵におよび、日本列島陸域の統一支配を成功に導いた他者を圧倒する軍事力に対する強烈な自負を原動力に、明朝=中華を中心とするアジアの世界秩序をひっくり返し、秀吉が外交秩序の中心に座ろうとする自らの世界ビジョンに基づいて遂行した。

 小西行長・加藤清正らが漢城(ソウル)を占領したという報告を聴くと、秀吉は、関白豊臣秀次に宛てて朱印状を送っている。それには、明朝征服の戦後プラン、東アジア世界を見据えた壮大な国割構想が書かれていた。
 その構想は、日本の後陽成天皇を「中華」の都北京に、朝鮮には秀次の弟秀勝か宇喜多秀家を、秀吉自らは寧波ニンポーにという壮大な計画だった。そして、さらに東アジア海上交通の要に進出し、南方へと伸びる海の道をおさえ、東南アジアからインド方面へ勢力を伸ばすというものだった。

3.「天下統一」政権の国際的孤立

 緒戦こそ快進撃だったが、戦況は講和交渉と再戦(慶長の役、丁酉再乱ていゆうさいらん)を挟んで泥沼化・残虐化した。しかしながら、慶長3(1598)年8月に豊臣秀吉が病死し、7年におよんだ豊臣政権の対外戦争が終結するに至った。
 朝鮮出兵という対外戦争は何を産み出したか。
 朝鮮は国そのものが戦場となり、人的・物的・経済的損失に加えて、あまりにも凄惨な戦いから、その後も日本への憎悪の念として永く記憶に刻まれることとなる。
 日本は、国内における「天下統一」とは異なり、豊臣氏を筆頭に、朝鮮との戦争に加担した諸大名にも何ら成果もなく、豊臣政権自体が急激に弱体化していったのだ。
 秀吉による武力威嚇・朝貢要求を受けた国々は国交の断絶におよび、結果として日本は国際的に孤立するに至った。奇しくも、1570年代の戦国諸大名が周辺諸国と個別に結んでいた善隣外交関係を、皮肉なことに秀吉が望んだように遮断する結果となったのだ。
 16世紀末の豊臣政権の外交は、強力な国内軍事統率力を用いて、海外諸勢力に対して朝貢を要求する強硬的外交であり、戦国大名たちが行った二国間の対称性・対等性を前提とした外交とは性質が異なるものであった。統一国家の主権として豊臣政権が行った外交は、16世紀末の東アジア世界に多大な犠牲を伴いながら破綻しただけだった。

【2】 徳川政権の国際戦略(1600年代)

1.国際社会における家康の課題

 徳川家康は慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8(1603)年、江戸幕府を開設した。天下を取った家康には、前政権(豊臣秀吉)が引き起こした対外戦争による諸外国との戦闘状態・国交断絶状態から脱却し、外交関係を再構築することが課題として存在した。
 まずは、明や朝鮮などとの国交回復交渉を開始した。そして、スペイン、オランダ、イギリス各国の勢力を歓迎して日本での貿易を許可し、カンボジア、安南(ベトナム)、シャム(タイ)など東南アジア諸国等に親書を送り、外交・貿易関係の復活に成功した。
 例えば、近藤重蔵が編纂した『外蕃通書』という戸幕府の外交文書には、17世紀初頭のカンボジア宛の漢文書簡13通と、カンボジア発の漢文書簡9通が収録されている。その文書では、家康は「日本国源家康」(大友義鎮の「源義鎮」を踏襲)を名乗っており、カンボジア側からの家康への呼称は
「日本国室」「日本国王」「日本大邦国王」と、大友義鎮への呼称「日本九州大邦」を踏襲したものとなっている。
 家康と外交文書を交わしたカンボジア国王の=スレイ・ソリヨーポア(在位1602~18年)は、王都ロンヴェーク(現在の首都プノンペンの北方35㎞)が隣国アユタヤ(現在のタイ)の侵攻によって1594年に陥落したが、王国の再統合を目指して国内外の対抗勢力と戦い、1620年に新都ウドン(プノンペンの北西40㎞)の建設に成功した人物だ。カンボジア国王として、「日本国主」の徳川家康と結び、お互いに外交的支持と軍事的援助を行った。

 江戸時代の初期は、日本人の海外進出が再び活発化し、東南アジア方面へ向かう商人たちの船に、海外渡航を許可する朱印状が与えられた。記録によると、長崎の末次平蔵、京都の茶屋四郎次郎、角倉了以、摂津の末吉孫左衛門らの商人、また、島津家久、有馬晴信、加藤清正、松浦鎮信らの大名がこぞって海外渡航をし、銀、銅、鉄などの鉱物資源を輸出、鹿皮、皮、砂糖、生糸、絹織物などを輸入した。慶長9(1604)年から元和2(1616)年までの13年間に発給された朱印状は195通、渡航先は19ヶ国にも上った。つまり、江戸幕府を開いたばかりの17世紀初頭の家康は、ヨーロッパや東南アジア諸国との外交貿易関係の再構築を積極的に推進していたのだ。強硬的な外交政策をとった豊臣秀吉がなし得なかった国家外交権の一元化に成功していたのだ。

2.江戸幕府の貿易独占としての「鎖国」

 一方、2代秀忠以降の江戸幕府は、父家康の時代に活発だった日本人の海外渡航と貿易を制限する政策に移行した。その背景には、徳川幕府配下の諸大名が独自に海外政治勢力と外交・交易協約を締結し、軍事・経済的に富強化することを防止するためだった。そして、徳川幕府として、キリスト教の禁教政策を打ち出し、諸外国との外交権と貿易利権の独占を計ったのだ。配下の諸大名が独自に海外政治勢力と外交・交易協約を締結し、軍事・経済的に富強化することを防止した。
【徳川幕府の政策】
・元和 2(1616)年:中国船を除く外国船の寄港地を平戸と長崎に限定
・寛永元(1624)年:スペイン船の来航を禁止
・寛永12(1635)年:日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止
          500石積以上の大船の建造禁止
・寛永16(1639)年:ポルトガル船の来航を禁止
・寛永18(1641)年:平戸のオランダ商館を長崎の出島へ移転し、長崎奉行
          が厳しく監視

 それ以後の200年間、朝鮮国、琉球王国、アイヌ民族、オランダ商館、中国に絞った外交交易関係を幕府が管理した。国内諸大名や民間商人の外交交易の場をつぶし、幕府が対外関係を一元的に統制したことで、江戸幕府が対外貿易を独占する結果となった。
 はるか昔の高校時代、日本史の授業で学んだ江戸幕府と言えば、長崎の出島でのオランダとの交易以外は「鎖国」をして、外国との関係を断っていたかのように思えてしまうのだが、実質的には消極的に国を閉ざしたのではなかったのだ。
 その半世紀前までの戦国諸大名が個別に開拓・保持し、その富強化の根源としていた諸外国との外交と貿易の権利を、江戸徳川幕府が日本国唯一の統一政権として一元的に管理・統括する積極的世界戦略を展開していたことを改めて学ぶ機会となった。

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合同会社Uluru(ウルル) 山田勝己
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