西行法師の歌と涙
西行法師は、1118(元永)年に、検非違使左衛門尉佐藤康清の子供として生まれ、本名は、佐藤義清と言う。もともとは武士で、23歳のときに出家。西行は僧侶や放浪の歌人として知られ、『新古今和歌集』にはもっとも多い94首の作品が収められている。のちの時代では松尾芭蕉も西行のことを師として仰いでいる。
12世紀末はこうした武にたずさわった人々の出家が目立つ時代である。『西行物語』をふくめ、後世数多くの伝説が残されている。西行が生きた内乱の時代に関して、最小限語る必要がありそうだ。ここにいう内乱とは、「武者ノ世」の到来として『愚管抄』にて指摘された保元の乱をかわきりに、平治の乱、治承・寿永の乱(源平の争乱)、そして奥州合戦にいたる30年余の時代をさす。西行入滅が奥州合戦の翌年の建久元(1190)年のことだったから、出家後の西行の人生の過半は、この内乱とともにあったことになる。
鳥羽天皇に出家を願い出た時には、次のような歌を詠んでいる。
「をしむとて をしまれぬべき この世かは 身をすててこそ 身をもたすけめ」 出家後の西行の遍歴として特筆すべきいくつかを挙げると、高野山を拠点とした西行は、保元の乱の敗者崇徳院崩御後、讃岐の白峯の墓所に詣で、その後弘法大師旧瞔をめぐる旅をつづけ、60代でやがて高野山から伊勢へと活動の拠点を移した。そして平氏滅亡後の文治二(1186)年秋、東大寺再興の観のため伊勢から奥州へと赴く。途上、鎌倉に立ち寄り頼朝と面会を果たした。その時の様子について、『吾妻鏡」は以下のように伝える。西行は頼朝に歌道・弓馬の話をうながされたおり、「弓馬ノ事ハ、在俗ノ当初ナマジイニ家風ラ伝フトイヘドモ・・・・罪業ノ国タルニヨッテ、ソノ事アヘテ心底二残シメズ 皆忘却シヲハンヌ」(原漢文)と語ったという。藤原秀郷の未裔として弓馬の奥義を極めた「楠家相承ノ兵法」のことを伝え聞きたかった頼朝の期待はかなえられなかったようだ。歌についても「花月二対シテ動感スルノ折節ワヅカニ三十一字ラ作ルバカリナリ、全ク奥旨ヲ知ラズ」と、まことにそっけない。頼朝40歳、西行68歳のおりのことだ。ただし、さすがの西行も頼朝への配慮もあってのことか、弓馬の件に関しては、奥義の一端を披露したらしきことが「吾妻鏡」に見えている。別れぎわに頼朝は引き出物として「銀作ノ猫」を贈ったが、西行はそれを門外の児に与えたという。このあたりが歌道に専心した西行の真骨頂といえそうだ。その後、鎌倉を発ち、10月、奥州平泉に到着したという。当時の奥州は秀衡の時代だった。西行はその能因の足跡を求め、二度目の奥州入りを果たした。その藤原氏が強勢を誇った秀衡の時代に西行は平泉を訪れた。奥州が頼朝と対立した義経を擁する直前のころだろう。頼朝率いる鎌倉の大軍が奥州入りのために白川関を越えたのは、西行との面会から3年後のことであった。西行の死はその翌年であった。
西行は桜を愛し、作品でも桜の歌が多く残っている。桜とともに無常観を詠んだ歌として、
「世の中を 思へばなべて 散る花の わが身をさても いづちかもせむ」がある。『新古今和歌集』に収録されている和歌で、現代語訳すれば、「世の中を思うと、全てが散る花のように儚く、他ならぬ我が身もそうなのだが、それにしても我が身は一体どこへ行くのだろうか」といった意味になる。
西行の桜を詠んだ和歌のなかで代表的な作品と言えば、辞世の句である、「願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」
が挙げられる。この西行の和歌は、辞世の句の歴史のなかでも有名な作品で、『山家集』に収録され、現代語訳すれば、「願うことなら、桜の咲いている下で春に死にたいものだ。釈迦が入滅したとされている陰暦の2月15日の満月の頃に」となる。そして、この辞世の句にある通り、西行は陰暦の2月16日に入滅したと言われている。享年73歳だった。
『古今和歌集』には次のような歌もある。
「世の中を 思へばなべて 散る花の わが身をさても いづちかもせむ」現代語訳すると、「世の中のことわりを思えば物みな散る花のよう、そのようなわが身の果てをさてさてどこと考えればよいのか」という意味になる。
西行は諸国を旅した人だが、陸奥を旅した時にこんな歌を詠んでいる。
「あはれいかに 草葉の露の こぼるらん 秋風立ちぬ 宮城野の原」
「ああ、どれくらい草葉の露が零れているだろうか。秋風が吹き始めた宮城野の原は」という意味だ。宮城野は、現在の宮城県仙台市の仙台駅の東から仙台港へ通じる市の北東部にあたる。
さて、いよいよ「百人一首」86首目所載の西行の歌についてである。
「 なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」
「千載和歌集」に「月前恋といへる心をよめる」とあり、自身の涙の理由がほかにある(恋のための物思い)と知りつつ、月のせいであるかの如く詠じたものだという。西行には恋の歌が多いこともたしかだ。『新古今和歌集』に数多く採首された西行の歌のなかには、恋の歌が少なからず見えている。
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