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名古屋駅のはじまりが名古屋市の発展につながった!
私が住む名古屋の玄関口は何と言っても名古屋駅である。
現在の名古屋駅は、官設鉄道の駅として1886(明治19)年に開業し、東海道線が開通すると主要駅として発展した。また、市内や近郊への交通は、名古屋電気鉄道の路面電車に始まり、市電や各方面への私鉄の開業・延伸で充実していった。名古屋駅は昭和前期に現在地に移転し、現在では「東海道新幹線」をはじめとする多くの路線が集まる一大ターミナル駅へ成長し、現在は高層ビルが立ち並び、名古屋市で一番発展している場所になっている。
ハザードマップを見ると、名古屋駅周辺の地盤はとても弱く、南海トラフ地震が起きたら、この近辺は液状化現象が起きるとされている。
徳川家康は江戸幕府を開いた際、尾張の首都を清洲城から現在の名古屋城へと移転し、清洲の街ごと名古屋城の城下町に引っ越しをするという「清洲越し」を実現した。清洲の城がたびたび五条川の氾濫で水浸しになる脆弱な地盤上にあったため、災害に強い熱田台地の北端に名古屋城を築き、熱田台地の上に城下町を築いたのだ。
現在の名古屋駅付近は古地図で見ると、湿地帯のような場所になっている。名古屋駅は当初「笹島駅」と呼ばれていた。現在の名駅4丁目は「泥江」という地名だった。泥の深い湿地帯であったところからつけられたという。名古屋駅の西の方には「日比津」という地名がある。これは、「土津、泥津」(ひじつ)が転声したと言われており、この付近は昔、湿地帯であったことからとされる。ほかに「深川」という地名もあり、古老の話によれば、大水が出ると、水が引かず、深い川のようになっていたことがよくあったからと言われている。。(旧町名)この近辺には「泥」「島」「津」という言葉のつく地名が多いのは、もともと海であったか湿地帯であったかを容易に連想させる土地柄だったということだ。
明治24年の濃尾地震の際には、名古屋駅のある中村区一帯は震度7を記録し、液状化現象や大きな揺れにより家屋倒壊、堤防崩壊、橋梁崩壊などの深刻な被害に見舞われたという記録が遺っている。
鉄道創成期に線路を敷設する際、様々な理由で「住民が線路を市街地に通すことに反対したため、鉄道が、従来から存在していた町を無視するようなルートになったり、鉄道の線路や駅が市街地や村落の中心部から離れた場所に設置されてしまった」などという話が全国各地に残されているが、名古屋駅の開設にどの反対運動があったことは確認できない。いわゆる「鉄道忌避」のような否定的要素はなかったようだ。
しかしながら、なぜこのような脆弱な土地に名古屋駅を開業したのかはよくわからない。
明治19(1886)年3月、武豊~熱田間が愛知県最初の鉄道として開業している。路線名を武豊線とし旅客営業も行うことになり、翌月には清洲まで延伸したのだが、この際、名古屋駅はまだ存在しなかった。しかし、名古屋の発展を願う名古屋区長の吉田禄在が名古屋駅の設置を請願するなど尽力し、同年に名護屋駅が開業した。なぜ「名護屋」だったのかはわからないが、翌年に名古屋駅に改称されている。当時の名古屋駅は現在の名古屋駅から200mほど南の笹島交差点近くで、周辺は葦が茂る湿地帯や水田地帯だった。ちなみに、現在の名古屋駅の場所に移転したのは昭和12年のことで、それまでは名古屋駅は笹島にあり、笹島停車場と呼ばれることの方が多かったようだ。
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上記の図は『工部省記録』に掲載されている「加納名古屋間実測図」だ。ここには「SASAJIMA STATION」の文字がある。私たちは笹島を「ささしま」と呼んでいるが、当時の笹島は「ささじま」と呼ばれていたことがわかる。一方、政府は東西を結ぶ幹線鉄道を中山道経由から東海道経由に変更している。中山道は碓氷峠などで難工事が予想されたことに加え、名古屋の衰退を危惧した吉田禄在が東海道への経路変更を政府にはたらきかけたことによるとされている。吉田禄在は中山道鉄道の敷設がいかに困難であるかを井上勝内閣鉄道局長に説いたと言われている。「加納名古屋間路線実測図」は、明治18(1885)年6月に、加納熱田間の線路敷設計画が確定したことを受け、井上鉄道局長が陸軍省との協議のために資料として添付した図面である。
今現在、名古屋駅周辺が名古屋市随一の商業エリアとして発展しているのは、吉田禄在の先見の明によるもの言っても過言ではないのかもしれない。吉田禄在は明治11年から明治20年まで名古屋区長として行政の改革に尽力した。その功績は、区役所の新築、名古屋停車場設置に伴う広小路の拡幅延長、名古屋城の金鯱の保存、伝染病隔離病棟の設立、消防の制度化や器具の近代化、貧困問題に伴う窮民救助基金設立など多岐にわたる。
私が住む名古屋市昭和区に鶴舞公園という大きな公園がある。ここは、明43(1910)年3月、に吉田禄在が長年提唱していた開府三百年記念大博覧会「第十回関西府県聯合共進会」が開幕した。吉田禄在は鶴舞に「吉田山」と呼ばれる広大な別荘を所有していたが、会場の鶴舞公園の整備に伴い寄附している。吉田山があった場所には、貴賓館が建設された。貴賓館の玄関の北側には吉田庵があり、土間廊下で接続されていた。これは吉田禄在が所有していた茶席で、共進会の開催前からこの地にあったとされる。共進会終了後、貴賓館は「九皐閣」と命名された。のちに「聞天閣」と改称されている。のちに聞天閣は、太平洋戦争が始まると解体され、吉田山そのものが高射砲陣地になってしまう。その高射砲陣地の台座の跡が鶴舞公園の中の野球場周辺にいまも遺っている。
吉田禄在は大正5(1916)年3月に逝去した。吉田禄在の亡骸は自身がその誘致に尽力した日暹寺(当時のシャム国からブッダの仏舎利を譲り受けて創建された寺院で、現在の覚王山日泰寺)の墓地に葬られている。あらためて吉田禄在のお墓をお詣りさせていただきたいと思う。
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