オリンピックの歴史④ 日本オリンピックの父:嘉納治五郎と幻の東京五輪
嘉納治五郎氏の銅像は、筑波大学東京キャンパス・放送大学文京学習センターに隣接した公園内にもある。NHK大河ドラマ「いだてん」の主人公:|金栗四三を中村勘九郎が演じた際、大学のロビーで企画展が催されていた。
嘉納治五郎は、1860年、現在の兵庫県神戸市東灘区で生まれた。嘉納は学業では優秀だったが、体格には恵まれなかった。そこで、東京帝国大学に入学後、非力な者でも力の強い者に勝てる柔術に心をひかれ、天神真揚流柔術の道場に入門した。嘉納の上達は著しく、柔術二流派の長所に自分で確立した崩しの理論などを加え、独自の「柔道」を創設した。
嘉納は、東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長を務め、水泳や長距離走など体育に熱心な教育者でもあった。彼は「体育は、身体を強くするだけではない。自分と他人を道徳的に高められるし、生涯続けることで心身ともに若々しく幸福に生きることができる。」という考えをもち、「柔道や体育で得た道徳的な価値を社会生活でも実践してほしい。」という思いを抱いていた。 <字数:2694文字>
嘉納は1911(明治44)年、翌年のストックホルム大会に日本人選手を派進するため、「大日本体育協会(現・日本体育協会・日本オリンピック委員会)」を創設した。予選会を実施し、短距離走の三島弥彦とマラソンの金栗四三《かなくりしそう》の2名の大学生を日本人選手として初めてオリンピックに参加させた。大会終了後には、各国のIOC委員を訪問し、その国の体育やスポーツ事情を見聞するとともに、柔道を紹介するなど、親交を深めした。
嘉納はオリンピックをさらに発展させるには、柔道の「精力善用」「自他共栄」という精神性が必要だと考えていた。この言葉の意味は、「自分の心身の力を活かして善いことに使い、自分だけでなく他人とともに栄える社会を築く」ということだ。
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