放射能に命を奪われる子どもたち
2024年、新しい世紀になって24年も経つのに、地球ではまだ戦争がくり返されている。ヒロシマ、ナガサキ、ビキニ、スリーマイル、チェルノブイリそしてフクシマ…人間は何度痛い目に遭えばその愚かさに気づくのだろうか。
平和利用というスマートな洋服に着替えた「原子力発電所」の「安全神話」がもろくも崩れ去ったのは、1986年4月26日未明であった。チェルノブイリの子どもたちに悲しみの時が始まった。チェルノブイリ原子力発電所4号炉が爆発したのだ。
核物質が1万メートルの上空まで吹き上げられ、放射能をたっぷり含んだ死の灰が南風に乗って、ウクライナ共和国から国境を越えたベラルーシにも降り注いだ。ヒロシマに落とされた原子爆弾500発分にあたる放射能だ。チェルノブイリの北側に高濃度の放射能汚染地帯が広がった。放射能を含んだ黒い雨が降ったところにホットスポットという高汚染地域ができた。
アンドレイ・マルシコフくん。ベラルーシで生まれた彼が生後6ヶ月の時、チェルノブイリ原発事故が起きた。アンドレイの母エレーナは毎日新緑の公園を乳母車にアンドレイを乗せて散歩した。ベラルーシの人たちは隣の国で原子力発電所で爆発事故が起きたことなど、誰も知らなかった。
エレーナは黒い雨が静かに降り続いていることに、そして死の灰が降っていることなど知らなかった。気持ちのいい暖かな雨の中をエレーナは傘を持たずに散歩した。
10年後の1996年、アンドレイくんは急性リンパ性白血病を発症した。通常の抗がん剤治療では効果のない難治性の白血病だった。7か月間、つらい治療が続いた。抗がん剤を使うと、何も食べられなくなって吐き続けるようになった。髪の毛が全部抜け落ち、辛くて苦しくて何度も泣いた。医師の献身的な治療にもかかわらず、少年の血液の中にできた悪性細胞はなかなか根治できなかった。
ゴメリ州立病院と日本からの医療チームが連携して、アンドレイ少年のいのちを必死につなぎとめようとする厳しい闘いが始まった。患者自身の血液や骨髄から、白血球を再生してくれる幹細胞を取り出して戻すことにより白血球を増殖させる移植医療を行い、アンドレイくんの病状は一旦かなり良くなったものの、やがて再発する。治療によって安定してもまた再発を繰り返す。そして、抵抗力がなくなっていき、2000年7月、たった14歳でその生涯を終えた。埋葬の日、言葉もなく、希望は絶望に変わっていた。
「ひとりの子どもの涙は、人類すべての悲しみより重い」と、 ドストエフスキーが言っているが、チェルノブイリの子どもたちは今も泣いている。
原子力がこの世に誕生してから、子どもの命が薄っぺらい時代になってしまっている。広島や長崎に投下された原子爆弾は子どもたちを含む多くの無辜の民を一瞬にして消滅させた。アメリカがイラク戦争で使用した劣化ウラン弾により、チェルノブイリで起きたことがそのままイラクで起きた。使用済みのウランを弾頭に仕込んだ兵器により、イラクに住む多くの子どもたちがアンドレイくんのように白血病を発症し、その尊い命が奪われることになったのだ。
名古屋市にある「セイブ・イラクチルドレン名古屋」は、医療器具や医薬品が不足しがちなイラクからの要請に応じて、適宜、医療器具や医薬品などの支援を行っている。同時に、白血病や小児がんの子どもたちを救うべく、イラクの医師を名古屋に招聘し、名古屋大学や日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院にて、これまで50名以上の医師に医学研修の機会を提供してきた。
日本の原子力発電所は、使用済みの核燃料について、再処理過程で再利用できないものとして残った放射能レベルの高い廃液を、ガラス固化体し、最終的には地下300メートル以深の安定した地層に処分する計画とのことだ。使用済み核燃料はその放射能が安全なレベルになるには10万年以上もかかると言う。こんなにプレートの狭間に存在して、大きな地震が頻繁に起こる可能性のある日本で、たとえ地下300メートルに埋めたとしても、まったく安心安全だといったい誰が保障できるのだろうか。未来の子孫にツケを押し付けているだけではないだろうか。