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センバツ発祥の地:球国ナゴヤ①

 高校野球の聖地は、間違いなく阪神甲子園球場だ。センバツや夏の大会はどちらも「春の甲子園」「夏の甲子園」と、甲子園球場の名をもって通称されている。高校野球=甲子園。そういって良いくらいの圧倒的な聖地なのである。

 ところが、夏の甲子園もそうであったように、センバツも最初は甲子園球場ではない野球場で開かれた。1924年春、第1回の選抜中等学校野球大会が、名古屋市の八事にある「山本球場」で開催されたということはあまり知られていない。

 阪神甲子園球場が完成したのは第1回センバツが行われた年の夏。つまり、春と夏の高校野球二大大会がはじめて揃った1924年は、春は山本球場、夏は甲子園球場で行われたというわけだ。そして翌年からセンバツの舞台も甲子園に移った。わずか1回だけの、いわば「幻の野球場=山本球場」だったのだ。

 第2回からは、その4カ月後に完成した甲子園球場に移った。春夏あわせ唯一、関西以外で開催されたことは意外と知られていない。名古屋の八事やごとにある球場跡地には巨大なマンションが建ち、球場の形から想像するとちょうどバックネットのあたりに「センバツ発祥の地」のモニュメントが立っている。面影は消えても、そこからセンバツの歩みは始まったのだ。球場名の元になった、ある人物抜きには語れない。

 山本球場の建設に関わったのが算盤運動器具商を経営していた山本権十郎という方だ。名古屋で布地、運動具、そろばん、不動産などを扱っていた。合名會社森岡屋や合名會社殖産會社の代表社員であり、財團法人澍世會を設立、慈善事業に尽力し、大正6年に市会議員に当選している。権十郎にはもう1つは篤志家の顔だ。宗派に関係なく、寺社への支援を惜しまなかった。権十郎は後の名古屋大学の学生寮も支援するなど、若者への援助にも熱心だった。中学生の大会に供することは本意だったはず。球場建設も、もともと地域の小学校の役員をしていた縁からだ。所有する山林を切り開き、運動場を整備し、林間学校に提供した。後に人に勧められ、球場とした。1922(大11)年、権十郎64歳の時だ。赤土とトタンの設備だが、名古屋新聞は「球場難がある程度まで緩和する」と期待を込めて報じた。関東、関西に比べ、野球発展に後れを取る中京地区待望の開場だったようだ。既に夏の全国大会を開催していた朝日新聞への対抗心もあり、新たな大会を画策する大阪毎日新聞の思惑に合致したのだろう。第1回の舞台に選ばれた。

 その頃の八事はというと、1907年には愛知馬車鉄道という馬が引っ張る鉄道のようなものが開通、それが1912年に路面電車となって名古屋の中心部と鉄道で結ばれるようになっていた。さらにこの年には丘陵地を切り開いて八事遊園地という遊興施設もできている。競馬場から陸上競技場、ボート場、猿小屋などがあり、路面電車を営業していた尾張電気軌道がお客集めのために設けたようだ。すなわち、江戸時代からの遊興地が近代的なレジャーの町へと発展しようとしていたということだろう。ただし、収容人数の少ない“お手製”の球場だったため、その後はプロ野球で使われることもほとんどなくなったという。特に1927年には愛知電気鉄道(現在の名古屋鉄道)が収容人員2万人の大球場を鳴海に建設したこともあって、山本球場の存在感は薄らいでいく。その頃には東山に東山公園(東山動植物園)が開園したこともあって、八事は行楽地から住宅地へと変わっていく。そうした時代背景も関係していたのだろうか。

 戦争を経て1947年には国鉄が山本球場を買収。以降は国鉄名古屋鉄道管理局の練習場となり、「国鉄八事球場」と呼ばれるようになった。国鉄だけでなく地元の高校の練習にも使われていたようで、享栄商業高校時代の金田正一が結成間もない国鉄スワローズにスカウトされたのは、八事球場での練習がきっかけだったとか。やはり歴史のある球場は、たびたび大事な場面で顔を覗かせるものなのだ。

 ちなみに、私の母が暮らしているマンションが「センバツ発祥の地」に近いため、上記写真のモニュメントは八事方面から母宅に向かう途中、必ず目に入る。もっと多くの人にセンバツ発祥の地を知って欲しいものだ。

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合同会社Uluru(ウルル) 山田勝己
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