ユニセフ親善大使として不可能を可能にした大女優:オードリー・ヘップバーン
"Nothing is impossible, the word itself says 'I'm possible'!"
これは、『ローマの休日』や『ティファニー朝食を』をはじめとする有名な映画で主演女優として活躍したオードリー・ヘップバーンの言葉だ。これを日本語にすると!
「不可能なことなどないわ。不可能 (impossible) という言葉自体、『私にはできる(I'm possible)』と言っているのだから!」
オードリー・ヘップバーンならではのウィットに富んだこの言葉を知るまで、"impossible" を"I'm possible" に言い換えることができるなんて、思ってもいなかった。
オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn) は、1929年5月4日、ベルギーのブリュッセルでイギリス人銀行家の父とオランダ人貴族の血を引く母との間に生まれた。しかし、6歳のとき、母親と自分を残して、父親が家を出る。一晩中泣きつづける母親に、無力感を抱えたまま寄り添う幼いオードリー。多感な少女時代は第二次世界大戦の真っ最中、ナチス占領下のオランダで食料もなくやせ細って栄養失調に苦しみ、家は破壊され、地下室や牢獄のような環境での生活を強いられていた。さらに、父は家族を捨てて両親は離婚。悲しみと孤独を抱え、過酷な日々をからくも生き延びた。戦後、英国のバレエ学校に入学したことが、女優としての輝かしいキャリアへの礎となった。
オードリーが当時を振り返り「ナチス親衛隊に直接支配され、誰もが口をつぐみ、身を隠して自由に話せず、ラジオも聴けない牢獄のような環境で私は育った」と話す場面も。「オランダ解放のあと赤十字とユニセフが来て廃屋に物資を運び込んだのを覚えてる。食糧や衣類や薬をね。戦争が終わった時、私は重度の栄養失調だった。食べ物の価値は知ってるわ。私の人生はその頃の記憶で形作られてる。子どもの頃にこちら側の人生を知った。あの苦しみと貧しさは今も心に残っている」とオードリー自身がユニセフの助けを借りて生き延びていたことが明かされる。
この経験は、晩年、ユニセフ親善大使として活動するオードリーに多大な影響を与えることになった。
ユニセフ親善大使に就任した1988年、オードリーは長年つづく内戦と干ばつで、ひどい飢饉に見舞われていたエチオピアに赴く。現地でのユニセフの緊急支援活動を視察したオードリーは、その後の数週間、精力的に米国、カナダ、欧州のメディアによるインタビューを受けた。そのインタビューの数は、ときには1日15件にも及んだという。
その後も、トルコでのポリオの予防接種活動、ベネズエラの女性向け研修プログラム、エクアドルの路上で暮らす子どもたちを保護する取り組み、グアテマラとホンジュラスでの給水活動、エルサルバドルのラジオ識字プログラムの視察などをこなす。また、バングラデシュの学校やタイの貧困家庭の子どもたちへの支援、ベトナムでの栄養支援活動、スーダンの難民キャンプ視察なども行った。ユニセフ親善大使として活躍する中、オードリーは次のような言葉を遺している。
「人道とは、人を幸福にすること、そして苦しみから救うこと。世界がひとつになるのが、私の夢です」
現地視察から戻ると、オードリーは自分の目で見てきたことを米国議会で証言したり、世界71カ国の首脳が参加した「世界子どもサミット」へ参加したり、さらには報告書「世界の子どもたちの現状」の発表、ダニー・ケイ国際児童賞授賞式の主催、募金カードのデザイン、慈善コンサートツアーへの参加などを通じて、世界の子どもたちの現状とユニセフの支援活動の意義を訴えつづけた。世界の注目を集めることができる、大女優自らの「声」を使って。その功績が評価され、1992年には米国最高の栄誉である大統領自由勲章を授与される。
同年、がんに侵されながらも、フランス、ケニア、ソマリア、スイス、英国、米国を訪問するなど、ユニセフの活動を継続した。1993年1月20日、一世を風靡した女優として、そして、世界的に有名なユニセフ親善大使として活躍したオードリー・ヘップバーンは、スイスの自宅で家族に見守られながら静かに63年の生涯を閉じた。
世界中に愛を届けたオードリー・ヘップバーンは、ユニセフ親善大使として次のような言葉を伝えている。