足るを知る:龍安寺の蹲踞から学ぶ
石庭で有名な京都の龍安寺には、真ん中が四角くなっており、それを囲むように「五・隹・疋・矢」の4文字が刻まれた蹲踞(つくばい)がある。蹲踞の真ん中の水が入った四角を「口」という漢字に読み替えると、上から時計回りに「吾唯足知(われただたるをしる)」と読める。禅林句集によれば、「足るを知る」という言葉は、「自分の身分わきまえ、むさぼりの心を起こさぬこと」という意味だ。禅問答でいうところの「吾唯足知」は、一生掛けても悟ることができない境地だと思うが、わかりやすく言えば、「満足することを知っている者は貧しくても幸せであり、満足することを知らない者はたとえ金持ちでも不幸である」という意味だろう。
日本の一般的な家庭には、どこの家にも当たり前のように洗濯機、冷蔵庫、テレビ、電子レンジ、パソコンなどの電化製品がある。自動車を2台所有する家も少なくないだろう。では、これらの家電や自動車がない家庭は不幸なのだろうか。100年前の日本には前述の電化製品や自動車はどの家庭にもなかった。当時の日本人が自分たちは不幸だと思って生きていたかといえば、そうではない。極端な話をすれば現在でも、アフリカやアジアなどの未開地では電化製品など一切使用しないで生活を送っている人がたくさんいる。しかし、彼らが不幸を感じて生きているかといえば決してそうではない。もしかしたら、私たち日本人よりはるかに幸せを感じて生きているのかもしれない。つまり、皆がそれを持っていなければ、そんなものの存在を知らなければ、その状態で「満足することを知る=足るを知る」ことができるのだ。私たち日本人は、「極めて相対的なこと」「物質的なもの」で、幸せや不幸を感じているのだと改めて感じる。
「貧幸」とは、演出家の倉本聡氏による造語だ。豊かさには「物」の豊かさと「心」の豊かさがある。「物」が豊かでも「心」が豊かでないと幸せにはなれない。逆に「物」に恵まれなくても「心」の豊かさを持つことはできる。「貧しくても幸せだった時代がある。豊かになったという今は本当に幸せなのか」と倉本氏は語る。
「現在の日本は皆が豊かさを追求しすぎて貧富の格差が広がっている。
豊かになることは良いことだが、家族がバラバラになり、昔のような家族
間のつながりや安らぎと言うものが失われてしまった。豊かとは経済的に
リッチということだけなのか。幸せとは今に満ち足りること、足るを知る
ことです。」
東日本の震災から12年も経った…。物質的にはずいぶん復興したかもしれないが、心身的にはまだケアを要する途中にある人がたくさんいらっしゃる。放射能の数値が高く、いまだに入れない場所もある。しかしながら、震災は過去のこととして「風化」され、大量消費と大量廃棄を繰り返す飽食の国…。さらには、今月末にも開始され始めるという東京電力福島第一原発の汚染水を浄化処理後に海洋放出する計画を巡り、相馬市といわき市で漁業関係者が大反対している。「『海洋放出されたら子どもたちには魚を食べさせない』と周りの人から言われ、ショックだった」「『科学的に安全』と言われても、不安しかない。息子をこのまま漁業に従事させていいのか。孫たちの時代はどうなるのか」など、漁業や生活を維持できるのか、不安の声が相次いでいる。国民の声は届かないまま、勝手に閣議決定されて、メディアは国からの規制が入っているのか実情を報じない。SDGsの14番目の目標「海の豊かさを守ろう」を日本という国はどう考えるのだろうか。魚貝類の大好きな日本人。汚染水の海洋放出は安全性が担保されているとはとても思えない。海の生き物は放射能汚染から逃れられない。日本から流出された汚染水は、放射能の情報が伝わっていない南の島国で暮らす人たちにも影響を及ぼすかもしれない。人間は地球に対してあまりにも傲慢だ。
倉本氏は、「貧幸」「足るを知る」という言葉を使って、日本という名の豊かで貧しい国に警鐘を鳴らしている。龍安寺の蹲踞に刻まれた「吾唯足知(われただたるをしる)」の4文字が泣いている。
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