見出し画像

近江歴史研究フィールドワーク② 小谷城戦国歴史資料館

 「ゆいネット・ナゴヤ」のフィールドワーク。次に訪れたのは小谷城戦国歴史資料館。小谷城を築城し、北近江を台頭した初代城主・浅井亮政あざいすけまさ融和政策に努め内政を良くした二代・浅井久政、せんごくの動乱に巻き込まれ、最期まで戦い抜いた浅井長政。戦国時代に名高い浅井三姉妹の|茶々ちゃちゃはつ・江《ごう》。

 浅井三代の繁栄は初代亮京極家家臣団の中で、頭角を現していくことから始まる。京極家は室町時代に四職ししきと呼ばれる中央政権の役職を担う名門であった。しかしながら、応仁の乱を過ぎた頃から北近江を支配する大名としての色が濃くなり、しかもその支配は一族間での争いのため非常に不安定となる。
 浅井郡丁野あざいぐんちょうの(長浜市小谷丁野町)出身の浅井氏は混乱に乗じて台頭し、その当主であった売政が京極氏家臣団の中心的存在となっていった。
 大永五(1525)年、売政はこの頃小谷城を築いたとされている。最初に築かれたのは大嶽おおごくで、小谷山の頂上、標高495メートルの位置である。天文三(1543)年には京極高清・高広父子を小谷城清水谷きよみずだにの館に超いて饗応したという記録も残っている。こうして内外に自らの力を見せつけた売政であったが、湖南の六角氏からは度重なる干渉を受け、北近江へと侵攻されている。売政の時代、六角氏に対して劣勢ではあったが、かえってそれが求心力となり、北近江の諸氏が浅井氏の元に集結し
六角氏に対抗する結果となる。
 売政より家督を継いだ久政の時代は、うって変わって六角氏の傘下で領国経営を行なう道が取られている。この時期は京都・室町幕府の政情が安定しており、将軍家の支援を行っていた六角氏も大きな合戦を行っていない。
北近江も比較的穏やかな時代であった。しかし、この融和政策に不満を持ち久政を批判するグルーブもあった。これらの意見は長政の元服をに勢力を増し、長政の時代には亮政時代の対六角氏強硬策が復活したのだ。

 浅井長政は信長の妹・市を妻に迎え、浅井氏は全盛を極めた。しかし、上洛を果たした織田信長が元亀元(1570)年4月に越前朝倉氏を攻めたことで情勢が一転した。長政は信長に反旗を翻し、朝倉と連合を組んで反信長包囲網に加わるという決断を下す。このま織田氏との同盟を続けていけば一家臣となり、独立性を失うとの判断であったが、結果的にいえば大きなミスであった。
 信長は越前で長政の謀反を聞き慌てて京都へ逃れているが、6月に改めて出陣、国境の城である長比たけくらべ城・苅安尾城を攻略し、同28日には姉川で浅井・朝倉連合軍と交戦している。
さらに9月から年末にかけて、坂本・比叡山で南下した浅井・朝倉軍は「志賀の陣」を展開し信長を苦しめる。しかし信長は巧みに将軍や関白を動かし、勅命を持って講和を結ぶことで難を逃れた。

ここから先は

2,331字

¥ 300

私の記事を読んでくださり、心から感謝申し上げます。とても励みになります。いただいたサポートは私の創作活動の一助として大切に使わせていただくつもりです。 これからも応援よろしくお願いいたします。