奈良の大仏で傾いた国家財政
天平の時代になると財政制度が大きく傾くことになる。この時代は、天然痘などの疾病が猛威を振るっていた。特に天平9(737)年の天然痘の流行では、藤原不比等の4人の息子をはじめ、朝廷の主要人物の多くが亡くなった。当時は医療制度そのものが未発達であった。病気になると「神仏への依拠」が強い力を持っていた時代であり、世の中で何か悪いことが起きるとそれを抑えるために、神仏に助けを求めたのだ。
奈良時代は、「大宝律令」という法律で天皇に権力を集中させる中央集権国家を目指した時代だった。とくに聖武天皇は、当時、東アジア最先端の国家だった唐の文化と政治制度を積極的に導入。安定した国造りに一生懸命な天皇だったのです。聖武天皇も、天然痘の打開策として神仏に頼った一人だ。天平13(741)年、聖武天皇は日本中に国分寺、国分尼寺をつくることを命じた。そして天平15(743)年には東大寺の大仏の造立を決定したのだ。その財源として考え出されたのが「墾田永年私財法」である。
大化の改新から奈良時代、平安時代へと移っていくこの時代は、日本が国家の形をつくり、うまく運営してくためにさまざまな制度を試していた。
645年の大化の改新によって、それまでの力のある豪族たちが土地や人民を支配してきた私地私民制が廃止され、「土地も人民も天皇のもの」となった。これを「公地公民制」という。
この公地公民制を原則とし、国が持っている田地を6歳以上の男女に口分田として与えることが規定される。この口分田は、与えられた人が亡くなるまで使うことができ、亡くなった後は国に返すという決まりだった。このように、土地を割り当てる制度を班田収授法という。これは唐の土地制度「均田制」を取り入れたものだった。
この時代は、中国や朝鮮半島から鉄製の鍬が導入されたり、池をつくったりしたほか、治水をおこなう技術が進歩したことにより農作物も増えた。その結果、人口は増加傾向にあった。これに伴い、朝廷は自ら新しい口分田を開発するも、次第に人口の増加に間に合わなくなっていく。そこで、朝廷は「人民が自ら土地を開墾してもよい。ただし、その土地が使えるのは3世代だけ」という新しい法律をつくり、人民自らが自分の口分田をつくることを認める。これが「三世一身法」である。しかしながら、この時代の農業技術では、3世代といえどもしっかりと収穫できる農地をつくるには時間が短すぎた。そのため、開墾をはじめたものの、途中で投げ出してしまう人や頑張る意欲が削がれてしまう人が多くいた。
そこで朝廷は法律を改め、三世一身法にかわる法令として墾田永年私財法を発布するのだ。開墾の条件としては、① 開墾する前に国に申請をすること
② 開墾許可がおりてから3年以内に開墾すること
③ 公衆の妨げになる土地の所有は認めないこと
これは、朝廷が新規で開墾された土地を把握することで確実に税を徴収できるようにするために設定したものだった。
墾田永年私財法が施行された影響で日本中に貧富の差が拡大した。墾田永年私財法は短期的には成功した。財力のある大貴族や大寺院などが競って開墾を進め、税収が増えたからだ。開墾した土地には現地に事務所を置き、その事務所を「荘」と呼んだ。荘が管理する田畑を「園」と呼び、あわせて「荘園」と呼ばれるようになったのだ。財力や政治力を持った貴族や大富豪、寺社などの権力者は積極的に土地の囲い込みをはじめ、大規模な荘園をつくり上げていくのだ。墾田永年私財法で私有地を増やせたのは権力者ばかりで、結果的に貧富の差を拡大させてしまったのだ。それは、新たに田を開墾できるのが、大勢の人夫を動員できる豪族に限られていたからだ。各地の豪族が肥え太っていき、その豪族が切り拓いた私有田に雇われる農民が増え、その農民は班田(公の田)を放棄するようになったのである。そうして「朝廷の財源が減り、豪族の力が増す」という事態に陥ってしまったのだ。
聖武天皇は国分寺建設や大仏造立のために、墾田永年私財法とともに、もう一つ大きな財源改革を行っている。それは、「不動穀」の転用である。
不動穀とは、災害や飢催などに備えて、税の一部を蓄えておいたもののことである。国街、郡街(地方の役所)に設置された不動倉に納められており、天平時代には、30年分が貯蔵されていたとされている。
この不動穀の一部を、国分寺などの建設費用のために転用させたのである。この財政改革により、不動穀の理念が崩れ、地方の役人や豪族たちが、なし崩し的に不動穀を転用するようになってしまった。結局これが、大宝律令によって整えられた財政体系、税体系を崩壊させることにつながっていった。
聖武天皇は悲願達成のために、これまで弾圧していた民間の僧侶行基の協力を仰ぎ、民衆の手も借りて大仏建立、東大寺落慶へとなんとかこぎつけた。しかし、そのために国家財政を破綻させてしまったのだ。当時の「神仏にすがるしかない」という実情の中では、致し方なかったのかもしれないのだが…。