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暴れん坊の侠客が弱者救済の道へ

 明治32年(1899)ごろから昭和7年(1932)ごろまで、今の愛知県半田市鴉根(からすね)町の丘に『榊原弱者救済所』という施設が存在した。敷地は約6万6千坪(約22万㎡)、 そこに宿舎、武道場、礼拝施設など10棟ほどの建物、畑、牧場、果樹園があり、常に50人~100人ほどが暮らしていた。
 ここで暮らすのは、貧しさのため捨てられた棄児や親のいない孤児。重病や障害があって家を出された老人や重病人。重度の身体障害者。行くあてのない老人。刑期を終えて出所したのに行き場のない出獄者。不幸な身の上の女性。いわゆる社会から見捨てられた生活弱者であった。また遊郭から逃げ出した遊女など女性たちの駆け込み寺のような役目も果たしていた。そんな人たちが世間から嫌な目で見られず、差別や偏見を受けずに暮らせる「幸せの村」…それがこの施設であり、延べ1万5千人が救われた。
 明治という時代には、貧しい人を救済する恤救規則という法律があったが、道端や橋の下に人が捨てられているのが日常の時代だった。 救済所は、捨て子や老病者を多く収容され、ここで成人まで育った孤児たちも数え切れなかった。   (上記の画像:榊原弱者救済所跡保存会のHPより転用)

 主宰者は榊原亀三郎。半田成岩(ならわ)町生まれで、若い頃は暴れん坊で侠客の道を歩んでいた。彼は30歳で救済事業に取り組んだが、それ以前は「べっ甲亀」の名を持つ侠客で、それも70名もの子分を持つ男だった。それが慈善家に転身したのは、静岡刑務所に服役していた際の典獄(刑務所長)川村矯一郎と、日本を代表する慈善家・金原明善との出会いであった。2人に触発された榊原亀三郎は、故郷の知多郡成岩町に帰り、子分を説得して組を解散した。そして彼に付いてきた20数名の子分と共に鴉根(からすね)の丘陵地を私財により開墾し、そこに弱者を救済する榊原弱者救済所を作り上げ、「新しい村」を造ったのだ。亀三郎翁は晩年、「この世に一人の孤児もいなくなり、努力しても飯が食えない人が、ひとりもいなくなるまで救済事業は続ける」と語った。残念ながら、志半ばにして、1925年(大正14年)、榊原亀三郎が事故死してしまう。その5年後、世相が戦争へと走り出した影響も大きく、弱者が切り捨てられたようにこの救済所も閉所された。

 明治初期までは数軒の民家があるだけの鴉根地区だが、かつて半田地方のシンボルともいえる大木がこの丘にそびえ立っていたと聞く。高さ15㍍、幹周り4㍍、樹齢600年という大きな松の木だ。江戸時代その木の上にコウノトリが巣を作ったことから「鴻の松」と呼ばれていた。その雄大な木は衣ケ浦を航行する船の大切な目印になっていたので、「御用木」とも呼ばれていた。 
 新美南吉の名作「狐」にも成岩町のシンボルとして登場する。木は残念ながら昭和初期に枯れてしまったが、その材木は地元の人たちが持ち帰り、家具などとして残っている。半田の常楽寺の応接間の天井の板もこの木が使われているという。

 新美南吉は昭和12年(1937)9月から翌13年3月まで、鴉根の丘にあった杉冶商会の畜産研究所(畜禽研究所)に務めていた。宿舎も鴉根にあり、短い期間だが南吉はここに住んでいた。南吉の日記によればヒヨコの世話をしたり、自転車で鴉根のあちこちを走っていたりと、それなりに充実した半年間だったようだ。南吉は鴉根時代にこんな俳句を残している。
  寒月や坂の上から下駄の音  
  寒月や烏根山の狐たち
 この鴉根を舞台に新実南吉の名作「狐」が誕生する。この物語に登場する「足の悪い狐」は、榊原弱者救済所の「三本足の狐」がモデルとの話だ。
  
  救済所のある広大な鴨根の山には狐や狸、兎などが多く棲んでいた。亀三郎は自慢の猟銃で鳥や動物を撃ち食料にしたり毛皮をとったりしていた。いつも粗末な食事の救済所だったので、たまに食卓にのる鳥や動物の肉は凄いご馳走だったのだ。また、動物の毛皮も貴重な収入源となった。
 ある日のこと、亀三郎は鴉根の山で猟をしていると、白い狐を見つける。亀三郎の猟銃が火を吹く。しかし狐は仕留められなかった。それから数日後のこと。救済所の敷地の中を三本足の白い狐が足を引きながら、子狐を連れて歩いていた。「わしの撃った狐だ。足を引く姿をわしに見せに来たのだ…。人助けを一生の仕事にした自分が、何ということをしてしまったのだ。」と亀三郎は後悔した。そして、その日を境に狩猟をきっぱりと止めたのだ。さらに亀三郎は京都の伏見稲荷に行き、二丁の猟銃を奉納。稲荷神社の祭神である「白菊大神』『福徳稲荷大明神』の分霊を得て、鴉根救済所に『稲荷神社』を建立した。救済所の人や亀三郎が毎日参拝するようになったころ、三本足の白狐が祠の辺りに姿を見せるようになった。白狐は祠のすぐ下に穴を掘り、そこに親子で棲みついた。そして親子の白狐は救済所の運動場にも姿をみせ、すっかり救済所の仲間になったという。その稲荷の祠は現存する。

 私は全く知らなかった事実だが、新美南吉のふるさとにも福祉の心がかつて存在していた。榊原弱者救済所のことをもっと知りたくなった。近いうちに現地に行ってみようと思っている。

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