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近江歴史研究フィールドワーク⑥ 国友の鉄砲鍛冶と反射望遠鏡

 ゆいネット・ナゴヤによる長浜フィールドワークの最終章は国友の鉄砲ミュージアム。
 もともと鍛冶を専門としていた国友衆が鉄砲造りに打ち込み、後に天下人となる織田信長が目をつけたのが「鉄砲」だった。元亀元(1570)年の浅井氏との「姉川の合戦」でも鉄砲は使用されたが、天正3(1575)年の「長篠の戦い」では、3,000挺の鉄砲が使用され内500挺は、信長より受注を受けた国友鉄砲が使われ、信長の勝利となった。

 天文12(1543)年、種子島の門倉岬に一般の大船が漂着し、そこに乗っていたポルトガル人から鉄砲がもたらされた。時の大隅国(鹿児島県)種子島領主・種子島時尭は、ポルトガル人から二挺の火縄銃を買い入れ、それをもとに鍛冶・八板金兵衛清定にその製造を命じ、家臣に火薬の製法を学ばせ、ここに日本での鉄砲制作が始まった。これをきっかけとする南蛮人との接触は、鉄砲をはじめとした多くの新しい文化を、日本の歴史の中へ注入することになった。その媒体となったのはキリスト数であり、布教活動をすすめたイエズス会は、教育・社会事業に力を入れ学校・病院などを日本の各地に設立した。
 現在、種子島にはポルトガル人から購入した初伝統と、八板金兵衛が製作した国産第一号銃と伝承される火縄銃が伝わっている。八板金兵衛の系統をひく種子島鍛治は、技術を伝承し弟子も増え、大隅・薩摩(鹿児島県)、肥前(佐賀県と長崎県の一部)・肥後(熊本県)など南・西九州に広まり、特に薩摩藩内では御用鍛治として繁栄した。

 種子島に伝えられた鉄砲は、まず和歌山県の根来や、大阪府の堺で生産されるようになる。伝来して7年後、はやくも畿内で鉄砲が実戦に用いられており、戦国動乱のなかで、その急速な普及には目を見張るものがあった。
国友でも、伝来からさほど遠くない時期に、鉄砲の製作が始められたとみられる。

 国友鉄砲鍛冶の成立について記したものは、鍛治たち自らが記した「国友鉄砲記」や「国友鉄砲鍛冶由緒書」が残っている。「国友鉄砲記」では、天文13(1544)年2月、将軍・足利義晴が管領・細川元を通じて国友村の鍛冶・香兵衛等に鉄砲製作を命じ、6ヶ月後に六玉筒二挺を完成させたことを、国友鉄砲鍛冶の起こりとする。
 「国友鉄砲鍛冶由緒書」では、鉄砲製作を始めた頃の弘治元年(1551)に南蛮人・長子なる人物が、種子島を経て国友に至り鉄砲製作を伝授したという。
 両者とも同時代の資料から裏付けできない現在、国友鍛冶成立の真相はなお謎に包まれている。ただ、中世の湖北には、例えば草野鍛冶にみられるような優秀な鍛合技術があり、質の良い山陰の鉄が国友へもたらされていたことから、鉄砲伝来からさほど遠くない時期に国友録治が鉄砲製作を始めていたと推定される。

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