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洲崎神社と廣井城

 職場の近くにある洲崎神社の前を通りかかった。どんな謂れをもつ神社なのかわからないままお参りした。

 史料によると、太古この地は入江で洲崎になり、地神(石神)が祀られていた。貞観年間、石神の導きにより、出雲から素戔嗚尊がこの地に遷座、奉斎された。洲崎(洲嵜)という呼び名が示すように、古代このあたりは入り海に突き出す格好の岬だったと考えられている。洲はもともと中州を意味する言葉で、洲崎というからにはその先端ということだろう。
 ここに石神を祀ったのはどういう勢力だったのか。石神はもともと大須裏門通にあったものを洲崎天王に移したという話がある。名古屋城下になる以前、このあたりはどんな地形で、何があったのか。

 『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は、石神社は祠官の永田氏の控社で、もとは紫川の北にあって境内地は1,200坪の広大な神社だったのが、江戸時代の清須越で医師の賀島道園にその土地が与えられたため、大須裏門前の控地に移されたという話を紹介している。
 名古屋城築城以前は現在の中区栄一丁目全域が社地であった。築城後、社地には武家屋敷が建てられ、境内に堀川が掘削されるなど大きく縮小した。神社があるのは旧紫川遺跡と呼ばれる縄文時代の遺跡が見つかっている場所に当たる。紫川は今の白川公園の北から西に回り込んで南下し、若宮大通りで西へ流路を変えて堀川に流れ込んでいた自然河川だった。
 遺跡は紫川の河口あたりに位置していており、旧紫川遺跡の北の竪三蔵通遺跡からは約3万年前の旧石器時代のナイフ型石器も見つかっている。
 こういった土地の歴史を考えると、石神を最初に祀ったのは縄文時代までさかのぼるかもしれない。この土地に最初に住みついたのはどういう人々だったのか。内陸から移動してきた人たちだったのか、船で海を渡ってきた人たちだったのか。

 『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書く。
 「『社伝』に貞観年間(859-876年)の頃の創祀という。又往昔出雲国稲田宮(安来市横田)の神を遷し祭て洲崎の鎮めたり」
 言い伝えとして、石神の導きで出雲国からスサノオ(素戔嗚尊)がこの地にやってきて鎮まったという話がある。スサノオを祀ったのが平安時代前中期で、後に稲田神社からイナダヒメを勧請したということだろうか。稲田宮というと、イナダヒメの父・足名椎命(アシナヅチ)と母・手名椎命(テナヅチ)のこととも考えられる。スサノオはヤマタノオロチを退治した後、アシナヅチを宮の首長に任じて、稲田宮主須賀之八耳神いなだのみやぬしすがのやつみみのかみという名を与えたという。

 名古屋城築城前の洲嵜神社は、現在の栄1丁目と堀川の西の名駅南2丁目の東部分をあわせた範囲が境内だったという。かなりの広さだ。堀川の掘削で境内が削られ、城下が発展するに従って境内に武家屋敷などが建てられて次第に縮小していった。それでも『尾張名所図会』(1844年)の絵を見ると江戸時代はまだまだ広かったことが分かる。「川向いの八角門前の清泉は、もと当社の御手洗にて」とあるから、堀川の西の熱田台地の縁まで境内だったということだ。現在は東西60メートル、南北80メートルほどだから、往事に比べるとずいぶん狭くなった。

 祭神について、江戸時代の認識ではどうだったかというと、『尾張名所図会』にはこうある。
「本社 素戔嗚尊・稲田姫・八王子を合せ祭る」
 『尾張志』(1844年)ではこうだ。
 「廣井天王崎にあり素戔嗚尊に稲田姫八王子を配享す鎮座の年月知かたし」 これは尾張藩としての公式見解とも言えるし、神社側の主張でもあったのだろう。天王社ともいっていたから、庶民の感覚としては牛頭天王を祀るというものだったかもしれない。廣井は旧字であり牛頭天王を廣井天王とも称した。牛頭天王とは素戔嗚尊の別名だ。

 江戸時代末には尾張藩主徳川慶勝によって楠正成・和気清麿・物部守屋を祀る三霊神社も創建された。この他、白龍社がある。創建当時から欅(ケヤキ)の祠に龍寿大神が祀られていたとのことで、それに加えて大イチョウの木に白竜大神が祀られている。江戸時代このあたりは椋の森と呼ばれていたというから、当時は鎮守の森の風景が残されていたのだろう。

 江戸時代は尾張十社の民社の総社的立場にあり、皇室、公家、徳川家より奉納が多数あった。
 この洲崎神社には廣井城の紹介もあった。天文年間に築かれた中村氏の城館と伝わる。今川氏配下の氏族の一つに、中村郷の中村氏の名前があり、この中村氏の城館である。
 中村氏の子孫には弓の名手として名を馳せた中村元勝がいる。徳川家康が掛川城を攻めた際、鷲塚城主の水野忠重が城壁を登ろうとする所を射落とされ退却するが、家康に対して、その弓の強さを賞賛したと伝わっている。
 今川氏が衰退した後は、織田信雄、豊臣秀次、松平忠吉と主を変えるも、この地を支配し続けていたと思われ、関ケ原合戦の折りには、関東から先鋒として戻ってきた福島正則の供応を務めている。
 その後は尾張藩主の徳川義直から三千石を知行され、嫡子の勝親は尾張三代藩主綱義の傅役を務めたと伝わっている。

 かつてこの場所は名古屋市中村区広井町という地名であったが、1977年の地名変更により、広井の名は住所からは消えてしまった。今はバス停の名前として「下広井」が残るだけである。

 歴史を調べるのっておもしろい。

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合同会社Uluru(ウルル) 山田勝己
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