【掌編小説】らしく
らしく
神宮みかん
グラスに水滴がついている。
喫茶マルカの入り口からは涼風が吹き込み店内を快適な雰囲気が包みこむ。
外気はかなり暑い。しかも、仕事終わりの花金。しばらくここで涼んでいたいと思う。
だが、二十分以上いるこの空間は苦痛の何ものでもない。今一緒にいる人とは早くさよならしたい。
もう春が夏になった。
私は四月に入社した会社にまだ勤務している。もちろん、働き続ける仲間の方が多い。でも、辞めた親友もいる。
私はどうすればいいの、と頭を抱えながらまだ働いている。ただ、常にこのままでいいのだろうか? このままでいることは勇気がないことではないのだろうか? と戸惑っている。
先輩とお茶をする。別に恋人がいるわけでもないから時間的な拘束はない。でも、仕事以外の時間を先輩と過ごす。これって仕事じゃないの? と問いかけたくなる。
仕事着から判断するに先輩とは服の趣味も違う。きっと趣味で重なるものは少ないだろう。それに、重なるものを探し、共通な話題をしたら私は先輩に心を許したと勘違いされてしまうに違いない。
先輩がトイレに立っている今が一番落ち着く。あー早く帰りたい、と思いつつ深呼吸し、身だしなみ等の話は聞きあきたと思う。
ふと、先輩の読んでいた本が目の前に置いてあることに気づいた。興味が湧いた。見てはいけない先輩のプライベート。覗いてはいけない空間。どんな空間なのだろう。
私は周囲を確認し、トイレの方にいま一度目をやり、即座に本を開いた。
題名には『後輩の育て方』とあった。
え? と私は思った。
この二つしか年齢が違わない女性は私のことを考え、プライベートを使っている。しかも、私の育て方を勉強している。
なぜ? と首を傾げた。
偏屈な私はどうせ評価を得たいからだろうと決め込んだ。でも、パラパラとページをめくるとマーカーや書きこみがあった。
先輩のこの行動。私にできるだろうか。できないに決まっている。でも、どうして先輩はできるのだろう。
目を通していると椅子をひく音がした。
「面白い?」
先輩の吊り上がる目。会社での先輩も怖いが、更に今の先輩の方が怖い。
私はもうどうにでもなれ、と言った。
「わかりません」
「正直ね。僅かな時間だから内容はわからないわよね。あなたのした行為どう思う?」
「間違っています。申し訳ありませんでした」
「お金。ここに置くね」
先輩はそのまま出て行ってしまった。
私は帰りがけ先輩が読んでいる『後輩の育て方』の本を見に書店に寄った。本の価格は千八百円した。久しく本を買っていなかった私は高い、と思った。でも、先輩に謝りたくて、いや先輩の気持ちがわかりたくて『後輩の育て方』を買った。
自宅で『後輩の育て方』を通読した。
内容は当たり前のような感じもしたが、文章にするからこそ初めてすんなりと理解できる部分があった。
特に、『聞く』重要性と『傾聴』の重要性。またその二つの違いと使い分け。へえ? と思った。そして、先輩が私の為に『後輩の育て方』に書かれた行動を実践し、私をより高い次元の人間に育てようとしていることが痛いほどわかった。
時を無駄にしていたことに対して無性に悔しくなった。にわかに会社に抑えつけられた退屈な毎日が突如として輝き出した。
スマホを検索すると先輩の日ごろ履いているパンプスがビジネスの場面に置いて高い評価を得ていることを知った。人は見た目が八割。先輩は実践しているなと思った。
週末を明け、私の靴を見た先輩が言った。
「おはよう。良い靴履いているわね」
「はい。このイギリス生まれのパンプス履きやすいです。人は見た目が八割ですね」
「あの本を読んでくれたのね…」
「先輩こそ大人ですね。嫌な後輩でも先輩から声をかける。本に書いてありました」
『後輩の育て方』。根底にあるより良いものを求め学び続ける後輩を育てる。
その一冊のおかげで先輩と私は見方が重なった。
趣味等は合わない。でも、人として先輩と過ごす時間は社会人として人生を歩むうえで欠かせないものになるに違いない。
喫茶マルカに涼風が入り込む。私は『先輩からの仕事の盗み方』という本を読みながら先輩を待っている。