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掌編小説【まだ死んでないよ】

 まだ死んでないよ

神宮 みかん

 モモヤでレモンスカッシュを飲む私の前に座る女の子。鈴木ストアの猫のぬいぐるみをバッグにつけている。私はいいなと嘆息がでる。

『お姫様 ご持参不要 貧乏は』

 まゆの会の川柳が私を笑わせてくれる。でも、離婚届は寂しそうに笑っていた。

「離婚届ですね。受け付けました」

 よくあることなのだろうか。市の職員は何事もなかったかのように離婚届を受理した。

 私はその無機質な受理に心の底から安堵した。受理は二つのことを証明していた。私は二十五歳でバツイチ。夫は元夫。

 元夫と付き合った期間は三年。元夫は誠実な男。生涯添い遂げられる男のように思えた。だが、夫は私より年上にも関わらず、私より年下の娘と不倫をしていた。

 夫を許せるはずもない。仮面夫婦として生きていくなんてまっぴらだ、と私は婚姻生活半年で夫を見限った。

届を出した私に現実が牙を向け始めた。コロナ禍で延期になっていた結婚式のキャンセル。招待状を出していた友人たちへの敗北感に満ち満ちた言い訳。まだ若いんだから大丈夫という根拠のない励まし。あり得ない。

 明日は出社しなければならない。同僚になんて言われるのだろう。どんな視線を向けられるのだろう。待てよ。実家でなんて言われるのだろう。考えれば考えるほど袋小路に突き当る。

 死ねば全てのことが終わる。楽になる。

 服毒自殺、電車への飛び込み自殺等、色々案を巡らした。しかし、手っ取り早い方法として飛び降り自殺と決めた。飛び降り自殺と決めるやいなや、会社近くのけやき並木の歩道橋の前に立っていた。

 私は歩道橋の階段を一歩一歩噛みしめるように上った。

 歩道橋の上に立ち周囲を三百六十度見回した。

 前橋駅が見えた。電車通学、電車通勤。毎日この駅を利用した。多くの思い出が前橋駅に染みついていた。高校入学時に不安にかられながら利用したこと。東京へ進学する恋人を改札口で見送ったこと。新社会人として歩き始めたこと。でも、悔しいことに一番の思い出は離婚したあいつと終電まで語り合い、私から交際を申し込んだことである。後悔してもしきれない。

 正反対を向いた。青空の下に雄大に佇む赤城山が見えた。つつじが目の前に飛び込む赤城白樺牧場へのドライブが鮮明になった。

 前橋の街が見えた。デートを重ねた前橋中央通り商店街、スズラン、白井屋ホテル等でのデートが輝きだした。でも、今となってはどす黒い思い出となってしまった。

 私は目線を下げた。お昼時、交通量が少ない。でも、飛び降りれば車にひかれる十分な交通量がある。

 私は欄干に胸をつけ深呼吸をした。

「まだ死んでないの?」

 横から声がした。見ると三十代後半の子連れの女性が立っていた。女性は繰り返した。

「まだ死んでないの?」

 なんて無礼な人。人が飛び降りようとしているのだから止めなさいよ。頭がおかしいんじゃないの、と思いながら言い返した。

「まだ死んでないよ」

「じゃ、早く死んでよ」

「あなたは誰? 何様? 私に何の用?」

「私はあなたの次に離婚届を出した者です」

 私は腰を抜かした。でも、この女が私の飛び降り自殺をせかす理由は意味不明だった。

「じゃあ、なんであなたがここにいるの?」

「私もこの歩道橋で飛び降り自殺をしようと思っていたの。そしたらあなたが先にいた。だから、飛び降りるなら早く飛び降りてよ。まだ飛び降りないの? 私、待っているの」

 私は女の隣でガタガタ震えている子どもに気づいた。子どもは猫のぬいぐるみを鞄につけていた。モモヤで出会ったあの子だった。

「その子どもはあなたの子?」

「ええ。この子もあなたが飛び降りるのを待っているの。だから早く飛び降りて」

「しつこいな。まだ死んでないよ。しかも、そんな可愛い子を道連れにしてどうするの?」

「どうするも何も残していったらかわいそうじゃない。私はもうこの街と同じようにがらんどうなんだから」

「がらんどう? あなたは子どもがいる。私は子どもが産めないがらんどうの体よ」

「ごめん。私……」

「それに私たちと同様。この街はがらんどうじゃない。まだまだいける。ね、お腹すかない? 胎児が動き始めた街にでも行きますか」

私たちは前橋の街中へ足を向けた。


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