父との関係性に関する考察(2)インナーチャイルド「彼」にこんにちは
彼に会いに行こう
目をつぶって、目の前にあらわれた扉を開けるといつも見える景色は公園だ。
篠崎公園だ。
私はそこで父と遊んでいる。私は4-5歳くらい。以下、彼、と呼ぼう。
一人っ子の彼の遊び相手はアクティブ系であれば父だ。
何時頃。夕方か。
キャッチボールをしているのだが、彼は上手く投げられていないようだ。
キャッチもできないようだ。グローブは父の学生時代のモノでクタクタだ。
何やら雰囲気が険悪だ。
どうやら彼はグズグズ泣いているようだ。
父の声が聞こえる。
「すぐいじける奴は何をしてもダメだ」
「すぐ投げ出す奴は何をしてもダメだ」
「表情にすぐ出す奴は誰も助けてくれなくなる」
ボールと一緒に厳しい言葉が飛んでくる。
彼はますますキャッチができなくなる。
彼は困っている。
キャッチボールは上手くできないし、
公園で楽しそうな家族が周りにいる中で独りガミガミ言われて、
もう嫌で家に帰ってレゴで遊びたいけど、投げ出しちゃいけないし、表情にも出しちゃいけない。
あいつをぶっ飛ばしてやりたいが力は弱いし、何よりキャッチボールが下手すぎるのは事実だ。ダサいと自分でも思う。
父にも自分にも腹がたって涙がでる。惨めさと悔しさと力の弱さと主張できない苛立ちが闇鍋のごとく脳の中をグツグツと滾らせ、暗黒の湯気を生成する。
彼は選択する。
「だまってやり過ごして早くこの場を終えよう」
やがて父もキャッチボールの下手くそな彼の指導に飽き飽きしたのか呟く。「もう帰るぞ」
彼は嬉しくなる。
「やっと解放された」
ここで油断してはいけないのに、彼は油断した。
解放された嬉しさで「ホッとした」表情をした。
父の指導のお替りだ。
「やっと終わったみたいな顔して、すぐに表情に出す奴はダメな奴だ」
帰りの車、たぶん車だったと思うが、車中は無言でやり過ごした。
無表情で無言なら何も言われない。会話のキッカケを与えない作戦だ。
彼はもう完全に無表情だ。
ではこの辺で
この辺で彼とはお別れしよう。車で家に帰る彼を見送りながら最初にあけた扉を閉めて、私は目を開ける。
ふー、しんどい。。。
私がインナーチャイルドに会いにいくと大抵彼が出てくる。
何回も、何回も共感したり、一緒に泣いたり、一緒に父を責めたり、ときに父の立場を想い父の幼さを説いたりもしたが、いまも彼がよく現れるのは癒えていないことの証左かどうか。
当時の自分は以下①~③のようなことを父に伝えたがっていたのだと思う。
① もう嫌だ!、をちゃんと主張したい
② 家で遊びたい!/サッカーがしたい!、などとちゃんと主張したい
③ そんな教え方では上手くなれない、もっと優しく教えてほしい(周りの家族の楽しそうな姿を見てみてよ)
しかし言語化能力も乏しいうえに高圧的・威圧的・権威主義的な父の前に、父そっくりの顔をした彼は成す術なくだんまりを決め込むのだった。
彼の生き残り戦略・思考のクセ
以上、彼が経験したことを踏まえて私の生き残り戦略およびそこから生成される認知の歪み・思考のクセはどんなものになるだろう。
ここでは「彼」を改めて「僕」にして検証してみよう。
僕は主張してはいけない
キャッチボールが下手で何をしてもダメなやつだから父の期待に応えられるまで主張してはいけないんだ。主張してしまっては投げ出すことになるから。僕は表情をだしてはいけない
表情を出すこと、特に泣いたり、イジけた表情は怒られる。
あと「ホッとした表情」。あれも凄く怒られるだから表情を出してはいけない。誰も助けてくれない・耐えるしかない
泣いているのに母はいないし、周りの大人も助けてくれないし、この嫌な状況を救えるのは無表情になってジッと黙ることだけだ。
次に時間軸を変えてみよう。父への作戦が、別のタイムラインや別の環境でも発動していないか検証する。
4歳にして採用した父への作戦は、社会人になって以降、父相手だけでなく会社の人に対しても使用しているケースがあった。
改めて彼とどう付き合っていくか
彼はいまでも頻繁に現れる私の大切なインナーチャイルドであり、否定するものではない。仲間であり、今も私の中に生きている。
とはいえ彼を抱える私もまたクセによって些細なシーンでマイナスになったりしているのも事実だ。
30歳前後を境に部下にめちゃくちゃ怒られた経験や、部下を全く信用しない
上司を見てきた経験などから気づきを得たり、内省する時間が増え、営業を離れたことで自分が信じていた神話から解き放たれ、キャリア支援を受けたり、勉強を重ねる中で変化しつつある自分は、現在これらのクセにどのように対処しているのだろう。
意識的にできているところもあれば、なんとなく、というのが正直なところであるが、敢えて表に落とし込むことで言語化し、今一度自分でもこのエコシステムにどの程度対処できているのか、リフレーミングできているのか考えてみたい。
第一の作戦「僕は主張してはいけない」の対策が「主張する」ってアホか!できるならやってるわ!、となりそうであるが、意識の問題だと思う。誰だって大人になれば大なり小なり主張するようになるだろう。
私が現在心掛けているのは、「あ、父に主張できなかったみたいに怯んでる」と感じるときや「あ、父と同じように威圧的にくるな」と感じたときに確り自分が感じていること、修正・訂正してほしいことを伝えるようにしている。
「主張する」ためには自分を信じる力が必要で、2つ目の対策はそれを補ってくれる。「満足したら成長しないぞ!」「うぬぼれたら終わりだ!」という裁判官の声は理解できるが、満足したって成長できるし、たまには自惚れたって良いじゃないか。
キャリアを構築していくうえでも自分の実績や貢献をしっかり言語化することはとても大切なことだ。
3つ目の対策は、特にここ数年意識していることだ。一人で為せることには限界があるし、一人では気づきが少なすぎる。
自分がやったほうが早いこともあるし、任せるのは他者のアウトプットを受容することになるので「~すべきでは?」も捨て去る必要がある。
もどかしいことも多いが、結果として大いなる叡智や頂に達することが多いのは他者と信頼しあって協働できたときだと感じる。
以上3つの対策は相互補完的に作用している。
2が3を生み出し、3の実績が1に繋がる。1は2を加速させ、2が・・・
だいぶ長くなった。総括を(3)に譲り、本稿はここで締めよう。
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