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本来性という虚構

人間の生きる社会には、当然のことながら人間の手によって作り出された数多くの制度がある。それらは人類の生存確率を高め、人間が平和に、そして豊かに生きられるように設計されている。文明社会、とりわけ先進国においては、生存の不確実性の問題はほぼ解決されたと言えるだろう。賃金や医療の問題など、生活に必要な最低限の要素は、今や国の制度によって保障されている。

しかし、社会を俯瞰したときに、人々が本当に平和に、豊かに生きていると断言できるだろうか。その目的を達成するための手段として制度は存在しているわけだが、それによって実現されるはずの理想の社会が現代社会であるとは言い切れるだろうか。

「理想の社会」という表現を用いたが、制度には常に理想やあるべき姿が内包されている。それは主に人間の生き方やその集合体である社会を対象としている。もちろん環境問題など、それが「社会」にのみならず「自然」という領域にまで広げられることもある。

そのような理想やあるべき姿は、しばしば「本来性」として説明される。我々は、人間や社会の本来のあるべき姿について考え、行動しなくてはならないということだ。各人でそれが異なれば、共同体や組織、国家は方向性がまとまらず上手く機能しない。

つまり、我々は①本来性を設定して②目標を作り、③制度を設計するわけだが、平和でない、豊かでない社会においては、端的に言えば、これらのどれかに誤りがあるということになる。あるいは現在が、その変化の過程に位置する場合もある。この記事で問いたいことは、そもそも人間や社会に「本来性」など存在するのかということだ。

しばしば「本当の自分」なるものを追求する者がいる。それはすなわち、現在の自分は本来の自分とは異なっているということだ。それでは、本来の自分と比較して、どのように異なっているのか。「理想の社会」についても同じことが言える。現代社会は、人間の定義する理想の在り方ではない。では、それと比べて、どのような差異がみられるのか。

本来性は全て、上記の例で言えば、自己否定の手段、現代社会を否定するための手段でしかない。それはすなわち、純粋に「今」を否定する行為である。現在の状態を否定するための道具として、理想や本来性という表現を用いている。否定した先に、何か特定の理想形やあるべき姿があるのかどうかは誰にも分からない。

本来性などというものは存在しない。実際のところ、個人はただ学び成長するだけであり、社会は現代の諸問題を特定し、改善するのみである。そのような意味では、理想形もあるべき姿も、今の状態がそれであり、そこから少しづつ時間を経ながら変化していくほかないのである。

2023年6月18日

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