貨幣価値と使用価値
現代社会で生きていくにあたって、お金は必要だ。なぜなら、人間が生活に必要とするモノはお金と交換することで得られるからだ。では、モノの価格はどのようにして決められているのだろうか。それは、一般的には需要と供給により決定する。
貨幣価値は特定の国や地域内で大きく異なることはない。しかし、モノを利用することの価値は、同じモノでも人によって様々だ。ペットボトル一本分の水を飲むことの価値は、その時の人間の状況や環境によって全く異なる。
モノを貨幣で測定した貨幣価値とモノを利用したときに人間が感じる使用価値の乖離が、資本主義の根本的矛盾の一つに挙げられるように思う。貨幣による価値測定は、個人の決めるモノの本質的な価値を見えなくした。そして、あくまでモノを交換するための手段であったお金が、人間の欲望を象徴するものへと変わってしまった。
交換手段としてのお金を沢山所持していることで、欲しいものは何でも手に入る。しかし、その"欲しさ"を触発するように広告は打たれ、ブランドは成り立つ。資本主義は貨幣と人間の欲望を結び付ける。そこに使用価値が入る余地はない。
貨幣価値という単一の尺度によって、経済が成り立っているという事実は、一つのゲームへと人間を誘う。ゲームを最適化した人間は多くの貨幣を所持し、その結果色々なモノを得られる。
しかし、当然のことながら最適化するための能力や手段は多様だ。すなわち、お金を獲得するためにどのような能力を利用し、どのような手段を講じるのかという問題は、幾通りもある。また、そのような能力は一つの能力として人の間で相対的に優劣がある。才能の他にも、環境がマネーゲームの勝利に大きな影響を与える。
ゲームを最適化する能力や技術の一部は、人が生きる上で必ずしも必要なものでは全くない。そうは言うものの、一つの尺度であらゆるモノが価値付けられている以上は、貨幣を所持していなくてはならない。
モノの交換手段としての貨幣という考え方は良かったのだろう。しかし、マネーゲームに多くの人間が参加し、人間の欲望を象徴するものとして貨幣が扱われたときに、人は単一の尺度でしかモノの価値を認識することができなくなってしまった。そして資本主義という歯車と共に、その認識と感覚は促進されてしまった。
モノの価値を決めるのは貨幣ではない。ましてや需要と供給でもない。本来モノの価値は人によって様々だ。自分にとっての価値の尺度を持っておくことは、あらゆる人生の選択に貢献するだろう。
2022年12月6日