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「進化」と「退化」
人生を歩んでいく中で、場合によっては学歴は一つの指標となる。特に就職活動では、学歴を学生を評価する明確な指標として扱っている会社もある。割り切ってしまえば、それはそれでおかしいことではない。
現在の学歴の価値と、昭和の時代の学歴の価値を比較して思うことがある。僕の高校は早稲田大学の附属高だが、そこで30年以上働かれていた先生が言っていたことを思い出す。昔は、ドイツ語と数学、物理学の教科書を机に広げ、週刊少年ジャンプを読んで、英語の授業を受けている生徒がいた。唐突にも教師の質問に的確に答えていたという。
どこまでその話が本当であるかはわからないが、所謂「秀才」が多く在籍していた。そんなことができる生徒は、僕がその高校に在籍していた頃には一人もいなかったが、当時はそのような若者がざらにいたようだ。
子供の数が減っているとは言え、秀才と優秀な人間、愚かな人間等の割合はいつの時代も変わらないような気がする。しかし、日本は少子化で人口が減少していることを考慮すると、相対的に秀才といわれる人の数も、理論上は少なくなる。
時代が変わるごとに、昔と現在とを比較して、現在を否定する者がいる。確かに若者を例に取れば、昭和の時代に生まれた人間が若者であった時よりも、運動能力や学力は低下していると考えられている。ところが、そのような何か失われた部分がある一方で、新しく養われたものも存在するという事実を無視してはいけない。
上記の例で言えば、若者の学力は著しく低下したことは事実であるものの、それは少子化に伴う競争力の低下に加え、インターネットの普及により、物事を暗記する必要がなくなったことが挙げられる。生きていくために一生懸命勉強に励む必要がなくなったという必然性の帰結であり、これは人類の歴史の観点からは不思議なことではない。
その変化を、「退化」という視点でネガティブに議論をすることは容易である。しかし、物事を暗記することに費やす時間を別の能力を開花させる時間に、多くの若者が費やしていることも事実だ。そのような意味では「退化」は「進化」の一側面であり、「進化」の視点でポジティブに議論をしていくことが、人類の発展に大きく貢献することになるのではないだろうか。
人は物事の足りないところや至らない部分を認識する脳の特徴がある。脳神経科学では、”エラー検知(Error Detection)”と説明されるが、そのような能力が人類の進化の過程で培われた、生きていくために必要不可欠な機能であった。したがって、欠如したところに視点が向いてしまうことは当然だが、物事を考える上では、プラスとなる要素を意識的に見ていくことも重要である。
2021年5月26日