見出し画像

日記⑨: 複雑な制度のもとでは手続きが面倒

先日、職場で万引きが起きた。お店が閉まった後に、2人の警察官が1人の青年を連れて、お店を訪れた。その青年はどうやら万引きをしていたらしい。

営業中に売り場で商品のタグが発見されていたので、その可能性は十分にあったが、まさか警察官が犯人を連れてくるとは思ってもみなかった。十分な証拠がなければ、捕まえることは難しいからだ。

以前の職場では、万引きをしている人を見かけても、スタッフは何もするなと指示があった。確固たる証拠が必要であることが理由なのか、あるいは色々なコストを考えてのことなのかよくわからない。おそらく両方の理由があるのだろう。

警官が青年を連れて訪れた時、責任者の方も、面倒臭そうにしていた(現に「めんどくさいやつじゃん!」と言っていた)。そう、手続きが面倒なのだ。万引きをされたことに関して、思うことも色々あるだろうが、その情報を聞いて最初に手続きの面倒くささが先行することに「なるほど!」と頷いてしまった。

複雑な社会制度の下では、制度を利用する際には必ずコストがかかる。その内容は、時間や費用などの物理的なものから、面倒くささ等の精神的なものまで幅広い。それらを含めたコストと、制度を利用することで得られるものとを天秤にかけて、行動を選択する。

さらに今回の場合は、万引きをされることによる機会損失と、個人の損失がリンクしない。すなわち、万引きをされたところで、その責任者の収入が減ることはない。したがって、万引きを自分事として認識することは困難で、その際に発生する制度上の手続きを純粋な「コスト」として捉えてしまう。たとえ手続きを行って得られるものが、かかるコストを上回ったとしても、個人にはメリットがないわけだ。

人間は社会で生きる以上、あらゆる制度と関わっている。そして、制度を活用することで、自分の利益をできる限り大きくしようとする者もいる。それは必ずしも悪いことではない(倫理的な問題が関係する場合は別だが)。しかし、制度を利用し、各人がそのメリットを最大限享受できるように行動した結果、人々の選択が均衡し、社会にとっては望ましくない状態が実現されてしまうことがある。

そのような自分の選択を客観し、その正当性を判断する基準となるものは、結局は個人の道徳性や倫理観といったものになるのだろう。これもまた、しばしば記事に取り上げている観点と結びつく。一人の人間としてどう生きるのか、社会の構成員としてどう生きるのかという、個人と社会の問い、すなわち「自由」と「公共」の問題へと繋がっていく。

2022年5月12日

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?