シン・エヴァンゲリオン劇場版を見て
エヴァンゲリオンというアニメがあって、その最後の劇場版が公開されました。
1995年に放映されたアニメで、はじめに完結したのが1997年の劇場版でのこと。
そのとき僕は14歳で、主人公たちと同じ年齢でした。
君はまだ生まれていなかったよね。
だから世の中がどうしてこんなに熱狂しているのか、よくわからないと思います。
きっと僕が、この作品の大切さを語っても、長く生きてればそういう作品もあるよねくらいに思うんだろうな。
確かにこういう「特別っぽいテンション」で語りたくなる作品やアーティストってたくさんあるし
(たとえば今回の映画の主題歌を歌ってる宇多田ヒカルなんかもそのひとりです)
あんまり語りすぎるのもなんだか迷惑だなって思うし…人の特別の、特別度合いを測りあうのって難しいよね。
でも、エヴァンゲリオンは、そんな特別の中でも特別でした。
そんなエヴァンゲリオンを、君にどう説明したらいいかな。
ストーリーや設定を長々と語るのも野暮だし、そういうのってみんなが上手にまとめてくれているし、
せっかくの機会、26年間つづいた物語が終わるときなので、
個人的な話として、僕の感じている「エヴァンゲリオン的なもの」について伝えることからはじめてみたいと思います。
たとえば、意味深なセリフを残してシーンチェンジする演出を見ると、エヴァンゲリオン的だなと思います。
次のシーンはどこかの外観だったり、全景だったり、タイトルロゴだったりするのですが、
こういった手法で言葉の印象を積み重ねていくのがエヴァンゲリオンです。
たとえばそれは、途切れたLINEの最後の一言。
最後だからこそ深読みしてしまう一言、日本語にはそういう言葉の使い方によって表される機微があります。
僕は14歳のころ、エヴァンゲリオンでその格好よさに魅せられてしまいました。
未だにやりとりの最後を印象的に締めたくなってしまうのには、たぶんその影響が色濃くあります。
たとえば、言葉と全く関係のない映像の組み合わせを見ると、エヴァンゲリオン的だなと思います。
幸せな日常風景に重ねられる悲痛な叫び。
こういった手法を積み重ねて、視聴者の感情を揺さぶっていくのがエヴァンゲリオンです。
たとえばそれは、インスタのストーリーに載せる写真と言葉の組み合わせ。
いま起こった素敵なことを写真に撮って、いま気にしている不安なことを言葉に添える君を見ていると、
14歳の頃に見たエヴァンゲリオンのシーンを思い出すのです。
朝の青空に聳える電柱、揺れるブランコが遮る夕日、望遠レンズで撮られた列車の連なる車両。
いま撮りたいと思ったものと、いま吐き出したいと思った言葉に何の関連性もなかったとしても、
その心の状態をありのままに吐き出すことに、僕は美しさを感じます。
たとえば、音楽の小節区切りから意図的に逸らされたカットチェンジを見ると、エヴァンゲリオン的だなと思います。
そして普段意図的に逸らされているから、小節の区切りで映像が切り替わったそのとき、シーンが印象的に飛び込んでくる。
宇多田ヒカルの「One Last Kiss」のMVを見て、それがエヴァンゲリオン的だったんだということを久しぶりに思い出しました。
他にもたくさんあります。
たとえば、混乱を呼び起こす世界設定と固有名詞の数々の連射。
たとえば、この瞬間にそれを言っちゃうんだっていう、ドラマの流れを無視した感情が発露するセリフ。
たとえば、大学生の頃に彼女と部屋で、学校にも行かずにセックスしつづけた日々のこと。
たとえば、母親と同じ男を好きになってしまった女性の悲哀。
たとえば、仕事をプライドにするしかないときの切迫感。
たとえば、体育座りで部屋の片隅に縮まり込んで、自分の中に閉じこもってしまう瞬間のこと。
たとえば、そういうときには取り止めもなく、内的な言葉が溢れてくるものだということ。
そして、そのときは映像ですら作画ですら、アニメーションであることを超えて壊れていくのだということ。
新作にして最後の作品である「シン・エヴァンゲリオン劇場版」も、そういったエヴァンゲリオン的なものに溢れていました。
そのひとつひとつが、最新のクオリティで次々と迫ってくるスクリーンを目の当たりにして、僕は見たかったものを目の当たりにしている喜びを感じていました。
そして、同時に寂しかった。
こんなにもエヴァンゲリオン的なものを見られる瞬間はもう二度と来ないのだろうということが、ただ寂しかった。
本当に、本当に素晴らしい作品でした。
僕の感想を聞いて、きっと君は「よかったね」と言うでしょう。
見たいものが見られて本当に良かったね。
ずっと追いつづけていたものが、素敵な形で終わって、本当によかったねと。
でも、僕はどこか不満なんだ。
不満なんか全然ない、素晴らしい作品だったのに。
ううん、だったからこそなのかもしれない。
この映画のストーリーは複雑に見えてすごくシンプルで「ゴルゴダオブジェクトという場所で主人公が父親を止め、世界に平和を取り戻す」という話なんだけど、
その最後の戦いに主人公を送り出すために、たくさんの犠牲や、いろんな心の葛藤があるんです。
それがひとつひとつ解決されていくことで物語は大団円に向かっていくんだけど、その流れに寂しさを感じてしまって。
なんだか、みんなが大人なんです。
きちんと大人になったみんなが、個々人の問題に大人の解決をして、たくさんの物語を終わらせていく。
その流れはもうなんだか美しすぎるくらいに美しくて、これ以上ないくらいに完璧で、
それがうらやましくて。
1997年の旧劇場版では、同じように主人公を最後の戦いに送り出すシーンで、ある人がこう言います。
「他人だからどうだってのよ! あんたこのまま辞めるつもり? 今、ここで何もしなかったら、あたし許さないからね。一生あんたを許さないからね」
また別の映画で、同じようなシチュエーションで、彼女はこんな言葉で主人公の”正しくない選択”を思いっきり後押しします。
「行きなさいシンジくん! 他の誰でもない、あなた自身の願いのために!」
今回大人になった彼女の一言よりも、まだ僕にとっては、これらの言葉の方が本物なんです。
正しく折り合いをつけた言葉が、どうしたって嘘のように響いてしまうんです。
それがたぶん、まだ大人になれていないことそのもので、でも僕は、その呪いからいつ抜け出せるのかが、どうやって抜け出していいのかがわからないんです。
今回主人公が向かった先、「ゴルゴダオブジェクト」は、僕たちに見たいものを見せてくれるための「設定」でした。
そんな優しくて甘い設定、これまでのエヴァンゲリオンには全くなかった。
世界はいつだって厳しいものとして目の前に現れる。
成功も幸せも全部ひっくるめてすべてが、主観においては苦しくてつらい試練でしかない。
それは僕が、現実を生きている実感とも強く重なる、世界のありようそのものだと思っていたのに。
ねえ、元はといえばあなたのせいなんだよ。
あなたと14歳のときに出会ってしまったせいで、自分はいまこんなにもダメな人間で、未だに大人になれないままで、
呪われたまま人生を生きているんだよ。
それなのに、あなたがこうして大人になってしまったら、僕はどうしたらいいんだろう。
取り残さないでほしい。
ひとりで勝手に大人にならないでほしい。
ワガママだってわかっているけど、大声でそう叫び出したい気分。
みんなが今回の映画を「素晴らしかった」というのを聞くたびに、悲しい気持ちになる。
ひとりで勝手に、こんなに呪われていたのは、僕だけだったのかなって。
わかるかな。わからないよね。
わからない方が幸せだし、そっちの方がずっといい。
そういう幸せな人生を送ってほしい。
でも、伝わるかはわからないけど、この気持ちだけどうしようもなく伝えたかったんだ。
そういう人もいるんだなって、ちょっとバカにするくらいの気持ちでいてくれたらそれでいい。
大人になれない僕を、笑ってくれたらそれでいい。
ねえ。
この映画は、そういう僕が、現実と折り合いをつけて生きていくための、これからの人生半分の指針になってくれるのかな。
そうだったらいいなって思ってる。
でも、今の僕にはまだ、それがわからなくて。
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