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神野桜子 47歳、中原欧介 55歳 ~「やまとなでしこ」を"いま"見るということ~

好意的な再放送。でも...


「私には見えるんです。十年後も二十年後も、あなたのそばには私がいる。」


そんなことを言った桜子も、20年の歳月がたった"いま"になって再放送が決まった事は、まさに青天の霹靂ではなかったのでしょうか。


神野桜子役の松嶋菜々子さんもそうだったようで、こんなコメントを残しています。


20年の時を経て、まさかゴールデンで総集編が放送されるとは想像もしていませんでした。今でも多くの方々の記憶に残っていることに驚き、リクエストなどで『やまとなでしこ』を応援してくださった皆さんに感謝しております。初めてご覧になる方は、愛よりお金をはっきりと口にする桜子に驚くかもしれませんが、ぜひ楽しんでご覧ください。


もちろん、現状の放送局にとってみれば"苦肉の策"以外の何物でもない訳ですが、「やまとなでしこ」という選択は、ある意味デリケートに扱わなければならないドラマではないか、と考えています。


そう言いつつも、自分自身こんな事を書くのだから"やまとなでしこ"を見続けているし、大学のレポート課題にもしているくらい(10年間提出猶予中)だし、塩田若葉役の矢田亜希子さんの"亜希子"という名前にも非常に親近感が湧きます。


それは僕だけではなかったようで、Twitter上でも...

『やまとなでしこ』が再放送✨とってもうれしい💗
20年経つのかぁ😳嬉しすぎてワクワク💕💕
わーい‼懐かしい😆当時のできごと思い出しながら観ます✨✨
「やまとなでしこ」大大大好きで、松嶋菜々子さんに憧れて、桜子さんが使ってた貝型のドコモの携帯、同じの使ってた😂確か私が初めて持った携帯電話。化粧品も当時松嶋菜々子さんがCMしてた物を使ってた、同じにはなれないのに(笑)
やまとなでしこが再放送決定!
これは絶対観るぞ😊
松嶋菜々子の美しさと堤真一の不器用さが良かったんだよなー✨
やまとなでしこ、仮に今リメイクするとなってもあの時の松嶋菜々子に匹敵する女優が見当たらない

などなど、かなりの歓迎モードと見て間違いはないでしょう。


しかしながら、20年前とは社会の在り方が大きく変わった中で、このドラマが前と同じように受け入れられるとは考えられませんよね。


なんと言うか、時代の"窓"や"鏡"として機能してきたテレビ、そしてドラマというものを受容する土壌が僕たち自身に残っているかは分からないし、当然SNSとの連携・相互コンタクトなんか当時はなかったし、初めて見る世代には「痛い」とか「ハラスメントのオンパレード」とか「ジェンダー論的にいかがなものか」なんて思われるんじゃないか。


いっそのこと放送なんかしてくれないで、僕たちの"淡い思い出"として宝箱に閉じ込めておく方が良いのではないかと、少し不安になってしまいます。


茶の間と放送の存在が、桜子と欧介を作った


僕はこの「やまとなでしこ」を"最後のトレンディードラマ"と位置付けているのですが、それは構成する要素に"茶の間"とテレビの機能としての"送りっぱなし・放りっぱなし"の最終形態が集約されたドラマだからじゃないかなと思っています。


ちょっと20年前を振り返ってみると...

・小渕首相倒れ、森連立内閣発足
・有珠山と三宅島が噴火、鳥取西部で大地震
・西鉄バス乗っ取り事件など17歳少年犯罪続発
・シドニー五輪で日本女性陣が大活躍、マラソンの高橋ら金
・雪印食中毒、三菱自クレーム隠しなど企業不祥事相次ぐ
・そごう、千代田生命などが破たん 
・介護保険制度がスタート

総理が倒れて(その後亡くなって)、災害があって、新しい種類の犯罪が起こって、企業が不正したり倒産したり...


ちょっと暗すぎません?


そして、2000年ってギリギリ20世紀なんですよね。



前世紀...



まだ"昭和の香り"がプンプンする20世紀末、テレビっていまと違って本当にライフラインであり、エンタメの中心であり、私達のコミュニケーションを形成するほとんどを占めてた訳で、古き良き"茶の間"という文化も(ちょっと前までは明石家さんまさんの口癖も"茶の間"だった)バリバリ現役だったんですよね。


どの家庭も夜の9時とは10時頃にはテレビの前でお茶を飲む光景は、年末年始だけでなく、ごくごく"普通"の"日常風景"だったのを、僕もぼんやり思い出せます。


その中で、みんなが抱く「欲望」と「現実」と「良心」と「不安」などを、いま以上に投影するメディアがテレビであったことは間違いないと思います。


「やまとなでしこ」を含む多くの月9ドラマは、この"空気"を絶妙に捉えて作品に仕上げてきたものだと、これって本当にすごいことだなと思っています。


制作側のこの責任感たるや、かなりのプレッシャーだったのではないかと想像に難くないでしょう。



だって確実に「月曜日、午後9時から1時間」を担うんですから。



この"茶の間"という視聴環境が桜子の「"お金への欲望"="寿退社含む安定の将来像"」と欧介の"お金よりも大切なものがある"="人間性の期待"」という当時のカオスな"空気"を、時に滑稽に、時に力強く、絶妙なグラデーションで展開していきながら、ブラウン管(懐かしい!)を通して私達の願望という"窓"と日常という"鏡"の機能を果たしてきたのではないでしょうか。


加えて、もちろんTwitterやFacebookやInstagramもありませんし、ましてや携帯電話(作中によく出てくる"アレ"です)すら普及率が52.6%(IT Media NEWS 2004年9月16日の記事から)ですから、作品について話すのはもっぱら友人や職場の人など自分の周囲、半径約3mの範囲に限定されてしまう為、基本的にこの頃のテレビは"一方通行"でしかないのが事実で、ダイレクトに制作者に反映されることはほぼ無いと言って良いでしょう。


少し話はそれますが、簡単に匿名でもシェアできる現代は恋愛系ドラマというか、"恋愛"を映し出すのが難しいですね。


テラスハウスやバチェラーが良い例で、無理に炎上寸前(それ以上もあったし、看過し難い)のセミリアリティーを追求し過ぎる、Youtubeで流行るようなコンテンツ的な要素が強い気がします。もちろん、パーソナルな視聴形態が基本となっていますし、バチェラーに限っては配信ですから「好きだったら見て」の姿勢ですので一括りにはできませんが、どうも僕たちの一次刺激(驚く・怒る・泣くetc...)にばかりフォーカスをしている印象です。恋愛に一次刺激は付き物ですが、"想いが届かずに苦悩する姿"だったり、一次刺激だけではない要因の方が不可欠だと僕は思います。そういうセリフが少ないドラマやコンテンツはやはり長くは印象に残らない作品となってしまうでしょう。


それを思うと"送りっぱなし・放りっぱなし"時代のドラマ、特に「やまとなでしこ」はコンテンツという枠にはまり切らないギリギリの時期に放送されたドラマではなかったかと思います。


簡単にシェアできない代わりに、一晩のうちにストーリーについて一瞬でも回想するようなインターバルがあることこそ(ここ重要!)、「恋に苦悩する自分」と出演者がリンクし、加えて翌日に学校や職場で話題になることで、そこに深みが増す形になるのではないだろかと、当時のお姉さん達(僕はその時小学生だったので)を想像してしまいます。


これらの視聴者行動と"送りっぱなし・放りっぱなし"の放送を前提とした体形が先鋭化された最後のドラマだからこそ、「やまとなでしこ」は僕たちのディープな思い出として刻まれているのではないでしょうか。


さぁ、どう見ようか?


僕はこの再放送の一報を聞いて「やまとなでしこ」にどう向き合おうか、正直悩みました(もっと悩むことがあるだろうと言われればそれまでですが)。


だって、いまさら"あの世界観"に21世紀の僕は正面から向き合えきれませんもん。


そんな中で、僕の恩師は再放送を「時代劇だな」とTwitterに書き込んでいました。


時代劇...


それなら見れそう...


忠臣蔵や暴れん坊将軍や水戸黄門のように...


そして、例え共感した部分があったとしてもそれは「過去の自分」がそうであって「いまの自分」ではないことを認識し、先に進むきっかけに出来ればいいな、という大それたことは思わないにしても、20年の月日を苦く、そして美しく噛みしめてみて頂くことが、ベターではないかと思います。


はぁ、どんなモチベーションで放送当日を迎えられるか。


しかし、言われてみたいですね。


「ばっかじゃ中目黒、なに祐天寺!」


って。


おわり。


 





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