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ただ、信じるということが大事な時

最近、こんな発信をしました。

自分が信じたいことに対して、証拠が見えない、理由が分からない、理解ができない。そういう時、人は不安になるものだと思う。

でも、究極的に証明できないことに対して「信じる」が必要な時があると思う。

「食べて、祈って、恋をして」に書かれていたこと

これは何となく書きたくて、書くタイミングを見失っていたこと。最近読んだこの本のなかに、著者のエリザベス・ギルバートさんが、信仰について書いてあったこと。ちょっと実際は間違っているかもしれないけど、自分が受け取ったニュアンスだけ書いてみる。

こうでこうでこう、という論理的証明をして「だからキリスト教は素晴らしい。信じるに値するのだ。役に立つのだ。」という人がいるが、それは信仰ではない。論理があるのは信仰ではない。ただ信じる、ということが信仰の本質であり、必要なことなのだ。

これがね、本当にそうだなあって思った。自分は特別に何かの宗教に対して、信仰するということはしていない。だから自分は、じぶん自身が納得できる考え方というものを探求して、育ててきて、人に伝えるようになった。

ちょっと具体的に言うなら、自分が人に話したりしているのは、こういうことだったりする。

*願いに生きることが幸せに繋がる
*願いに生きるための最適な装備として個性が与えられている
*人生は自己納得感
*世界は誰も見捨てない
*自己犠牲は誰も救わない
*満たすのは自分から
*自分であることが先。関係性や環境は次。

これらは、ぼくにとっては正しい。こういった考え方は、人に幸せをもたらすと信じている。しかし、科学的に証明できるかっていったらそうではないし、それは重要ではない。

「証明できないけど、人によって違うけど、それでも信じると幸せになれる信念」はあるんじゃないかと思う。そして、そういったことが詰まっていることが宗教だとして(非合理的だったり無意味なものや、それによって生まれる不自由や軋轢があることはそれとして)その存在意義って、やっぱりモノスゴク大きいことだなって思うのだ。


証明できない、どうしていいか分からないから、人は迷う。その時に何をもって判断するのか。その時に、確率的にいい方向に生きやすい考え方があるのなら、最初からそれをインストールできたほうが、生きるうえで便利。その役割を宗教が担っているなら、それはすごいこと。

だから、日本人というのは、自由すぎて不便だと思う。生きづらい人が多いのもしょうがない気がする。生きる基準がなくて、全部を自分で決めていかないといけない。先生も親も、そこに関しては教えてくれないし、教えてくれたとして、自分にとって正しいかは分からない。こりゃあ、生きるのが苦しくなるのもしょうがないと思う。

論理的に答えが導き出せないこと、証明できない、解決方法が出ないことが人生にはいっぱいある。多様性が認められるようになったこの世界で、どうやって生き方を決めていくのか。そのヒントが「信仰」であって、だから信仰の本質は「役に立つ」ではいけないのである。

思考停止とは違うのか

こういった話をすると、それは思考停止ではないのか、と感じる人もいるかもしれない。自分自身、どうなんだろう、って思った。だから、この点についても触れておこう。

納得できる答えを出す。信じたい考え方や信念を探す。それはすごく大事だと思う。そこに至るまで、いろんな人の話を聞いたり、じぶん自身で、考えきることは大事だと思う。

その上で、最後は自分で信念を選ぶ。これを信じたい。信じている自分が隙。そんな私が私らしい。そう思える設定、信念だ。

それを決めたら、もう迷わない。それが「選択した」ということだ。この信念は、自分にとって間違っていた、と心底思うまでは、採用し続けないと決めた意味がない。誰かが否定してきても、関係ない。しばらくその設定で生きてみることが大事。

決めた信念以外のことを考えることはある。でも、その時に気づいて、決めた信念を選択しなおす。そして、自分の人生のストーリーを通して、選択した信念が自分にもたらしているものを見ていく。自分自身の人生の中で証拠となる体験を積み重ねていくと、いずれ選択した信念は自分の中の真実となる。

だから、考えに考えて、選んでいいというところで、思考停止ではないのではないかと思う。そして、本当に違うとなったら、また考え直してもいい。でも、基本的に自分の基盤となるのが「信仰」なので、そういう自分条例みたいな、自分にとっての絶対的真実といえるような、そういう信念を見つけられたら、人生はブレにくくなるし、幸せに繋がるのではないかと思っている。

生きたい人生のために信じるものを決める

何をもって、自分にとっての信仰にするのか。それは生きたい人生、自分にとっての幸せのために、適していると思われるものだと思う。

正しい証明はできなくても、そうなんだって決める。そこに正しい理由はないが、信じる理由は必要だ。

この記事の冒頭にかいた彼女の件で言うなら、ぼくは彼女と一緒に幸せな人生を築いていくことをやっていきたい。「理解できないけれど、直感的には問題がない」ということに対して、余計な不安にエネルギーを注ぐよりも、創造的な方向にエネルギーを費やしたい。


これまで、すべてを理解し、管理するということよって、じぶんを守ろうとしてきたし、成長してこれたと思っている。でも、それをパートナーシップに適応すると、うまくいかない。人のことは究極的に理解できない。

理解しあおうとする努力は大切だし、理解は深まっていくけれども、究極的には分からない。

そのうえで、背中を預け合う信頼関係を築くには「この人は信じる価値がある」という確信と、どこかで「分からんけど信じる」という信仰が大事なのではないかと思うのである。

あとがき

勢いのままに抽象的な文章をかいた。自分としては、しばらく書きたかったことが文章にできて、満足できた感じがする。

しかし、どうなんだろう。読んでくれた人がいたとして、意味わかるのかな。意味わからないかな。まあでも、誰かのなにかになってくれたら嬉しいな、と思う。

だから、読んでくれてありがとう。読んで、何かを感じてくれてありがとう。またね。

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