大人の動物園の楽しみ方
動物園に行った。
僕にはある程度大きくなってから動物園に行った記憶が全くない。
というわけで、記憶の上では自分のことをある程度わかるようになってから初めての動物園ということになる。
あまり美術館や博物館に面白みを感じることができない僕には、動物園も同種のように扱っていた。
入る前には、動物園を本当に楽しめるのかかなり不安だったし、どう時間を過ごしていいかもわからなかった。
しかしである。面白かったし楽しかった。
猿山には、人間社会のアナロジーとしての小さな社会を見つけ出すことができた。
小さな子供が動物を見て純粋に喜んでいる姿を見るのはとても心が洗われた。
休憩しながらMBTI診断を通してお互いの性格をより深く知ることができた。
あと、普通に動物たちが可愛かったりかっこよかったり。
猿山は見ていて飽きない。色々な社会の縮図を見せてくれるように見える。
動物も社会を持っている。
僕たちは現代の資本主義という仕組みを特に気にせずに生きているが、動物たちの社会を見ることで我々の社会が相対化される。
猿も人間に比べて知能を持っていないということを除けば、だいたい同じような社会構造を持っていることが猿山を眺めているとよくわかる。
猿社会は人間社会に比べて複雑化していないため、そのピラミッド構造はより明確である。強いものが、弱いものの資源を奪う。
資源の分配には明確な不平等が付きまとうのだ。
人間も結局資本主義という檻の中では、他の人間よりも強いものに多くの富が集中し、弱いものは資源を安心して持っておくこともできない。
人間と猿との間で明確に違うのは、複雑な経済システムがあるか、法律があるか、技術があるか、価値に多様性があるか、というところであろう。
猿は人間よりも本能が占める割合が多い。そんな猿もこのような社会を作り上げるのだとすれば、本当の意味での社会主義を実現するのはかなり難しいのだろうなあ。
こういう社会の仕組みのあり方については今後もう少し考えねばならない。
この日も、猿同士が喧嘩するところ(競争)、お互いに毛繕いするところ(協力)、などさまざまな場面を飽きずに30分くらい見続けていた。
あんなに、どうやって時間を過ごすのかを心配していたのに。
日曜日の動物園は、当然のことではあるが家族連れで溢れていた。
子供というのは純粋で、動物を発見するたびにすごく良い反応をするのである。
ホッキョクグマ、キリン、ゾウ、ゴリラ、トラ。何を見ても嬉々として親に報告する。
昔の自分もそうだったのであろうか。
動物を見てかっこいいとか可愛いとか感心することはあっても、興奮することは正直あまりなかった。
人生経験ゆえか。
だんだんそう簡単に心を大きく動かすことはできなくなってくる。色々なことがわかってくるから。
そういう意味で、歳をとるのがとても怖い。並大抵の刺激では大きく心動かされなくなってしまうのだろうか。
ただ、動物を見た時の大きな興奮は感じずとも、子供時代とは違う楽しみ方をすることができたのも事実である。
先ほど述べた猿山の見方も大人になったからこそ楽しめる見方である。
もちろん、他の動物に対しても、生息地を予測してみたり、何を食べるのか食性を予測してみたり、色々な楽しみ方を動物園にはさせてもらった。
歳をとるというのは、そういう違った楽しみ方を見つけていくということなのだろう。(美術館や博物館でもそういう見方をできればいいのだが。)
しかし、いまだにBGMに『青と夏』がかかっている中で踊っている高校生たちを見てちょっと感動してしまったりする。
そんな、ありきたりな演出に心動かされてしまう自分も存在するのだ。
いつまでも僕の感情を動かしてくれる音楽というのはとても尊い存在だ。
そういう存在を人生では大切にしていきたい。