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笑いの原理

ここ数年でお笑い人気は爆発的に広がり、今やM-1は誰もが年末に見る国民的コンテンツになった。

そんなお笑いブームに僕も巻き込まれてしまったようだ。

最初は、オードリーの若林さんを好きになり、若林さん関連の色々なコンテンツを追った。
ラジオ、テレビ、エッセイ、Note、文學界、、、
(文學界での若林さんと哲学者の國分先生の対談は、どちらの著書にもかなりハマった僕にとっては、神コンテンツ以外の何でもない。)

僕は、若林さんの思想や考え方の変遷をとても興味深く感じており、それを知ることは若林さん同様に自分自身や人間についてどこまでも考えてしまう僕にとって考える一つの指針となった。

また、令和ロマンのくるまさんの世の中の文化やカルチャーに対する考え方もとても面白く、「令和ロマンの娯楽語り」や「永野とくるまのひっかかりニーチェ」にもどハマりしてしまった。

やっぱり基本的に僕は、いろいろなものを突き詰めて考えたい、言語化したい人なのだなと思う。

とまあ、そんなことは今回はどうでも良く、そうやって若林さん(ここ最近はくるまさんも)を追う中で、漫才の面白さに目覚めてしまったわけだ。

これは、おそらく大学生になったくらいからの話で、大学生になってから今現在にかけて、だんだんと僕の中でのお笑い熱は上がっていった。

もう今更感もあるけど、2024年のM-1も面白かったねー。

僕は、エバースのしゃべくり漫才に完全にハマってしまいまして、最近はYouTubeでエバースの標準語でも内容が濃いしゃべくり漫才を発掘してはみてを繰り返しております。


こうして、ここまでお笑いにハマっていったある日、いろいろなものを突き詰めて考えたい、言語化したい僕は、なんで漫才師の漫才は「笑えるのか」が気になってしまったわけ。

くるまさんが書いた『漫才過剰考察』も読了した。

なるほど、漫才はこんな時代の流れに乗って変化してきたのか。なるほど、漫才は地域によって見せ方が異なっているのはこういうわけだからか。

漫才に対しての見え方がこれまでとは変わった。(レビューで誰かが書いていた言葉を借りれば、漫才の『サピエンス全史』だ。)

石田明さんの『答え合わせ』も買ったよ。まだ読んでないけど。


とまあ、漫才に対する考察は漫才師さんに任せるとして、(僕も今後もっと自分の考えを深めていきたいけど)僕は一度ここで根源的なことについて考えてみたい。

「笑い」はどうやって起こるのか。

笑いとは何なのだろうか。なぜ私たちは思わぬ瞬間に声を上げ、体を揺らし、そして心がふっと軽くなるような感覚を味わうのだろう。そのきっかけは、ふとした言葉かもしれないし、日常の一コマかもしれない。笑いは、どこにでもありながら、なぜか掴みどころがない。そのメカニズムを言葉にする試みは、砂漠の中で水の形を記すようなものかもしれない。それでも、人が笑う理由を探ることは、人間という存在そのものを掘り下げることに等しいように思う。

笑いの土台 = 安心感

相手に笑ってもらうためにはまず、相手に安心感を与える必要がある。

相手が自分のことを怖がっていては、どんなにあなたが面白いことを言おうが相手は笑ってくれないだろう。
まずは、自分が相手にとって安心できる存在であるということを知ってもらわなくてはならない。

それが漫才でいう「ツカミ」なのである。
自己紹介的な要素を絡めてちょっとボケる。自分たちのことを多少知ってもらうことで、観客の方に「これから僕たちの漫才を安心してみてもいいですよ」という安心感を与えているのだ。

共感笑い(≒ あるあるお笑い)

自分が誰かを笑わせようと思った時に、相手に理解できない、想像されづらい話をするのは無駄であるということは容易にわかるだろう。
人を笑わせようとする時、その題材は相手の価値観や経験と一致し、相手に理解されるものでなくてはならない。

漫才師は、寄席(いろいろなお客さんがいる、お笑い初心者が多い)ではやはり大衆的なテーマで漫才をするそうだ。
令和ロマンが2022年の敗者復活で、「ドラえもん」のネタをしたのもそういう狙いがあってのことなのだ。

そのため、笑わせようとする相手のことをよく知ることがまず大事である。
相手が理解できない話ではない、相手の価値観や経験に合致していることで初めて、そこに笑いが生じる可能性が生まれる。

見知らぬ人たちに、出身校にいた名物先生のモノマネなんて絶対にしてはならない。その人たちは、その名物先生の存在すら知らないのだから。

笑いの始まりには、必ずと言っていいほど「共感」がある。経験や価値観が一致する瞬間、それは笑いの基盤となる。たとえば、「朝、電車で寝過ごして乗り越したとき、戻りの電車でもう一度寝てまた乗り越す」というエピソード。こんな話を聞けば、誰もが一度は「わかる」と頷いてしまうだろう。そこには、孤独ではないという安心感がある。誰かが同じ体験をしている、それだけで心が和らぐ。その安心感が、笑いの入り口になる。

共感による笑いは、言うなれば「あるある笑い」だ。聞いた瞬間、観客の中に「あ、それ、自分も!」という声が響き渡るような笑いである。たとえば、「授業中に眠気に勝てず、目を閉じた瞬間だけ先生が『ここ大事だからメモしといて』と言う」という学生あるある。ここで笑いが生まれるのは、言葉によって無意識の中にあった体験が呼び起こされるからだ。それは小さな発見のようでもあり、自分自身が誰かと繋がっていると気づく瞬間でもある。この段階の笑いは穏やかで、観客に安心感を与え、次への期待を高める。

モノマネなんかは、その人の特徴を誇張したりして、「あー、確かにあの人こういうところあるよね!」という共感お笑いの代表格ではないだろうか。

これまで人々が漠然と抱えてきた違和感を明確に言語化した時に発生するお笑い(例えば、ウエストランドの「R-1には夢がないけど、M-1には夢がある!」)もある種共感お笑いだということができると思う。

意外性による笑い

しかし、笑いは共感だけでは止まらない。相手が自分に対して安心感を持った時、異なる笑いの可能性が開ける。意外性だ。意外性は、予想を裏切ることによって観客の心を揺さぶる。

意外性とは、「変」であるということだ。「普通」ではないということ。
常識とは違うことをすること。みんなが予想していたことを裏切ること。流れにそぐわない行動をすること。

これはつまり、「ボケ」である。

たとえば、ボケがよくわからないことを言い出す。観客は一瞬戸惑う。そこにツッコミが観客と同じ立場に立って「なんでやねん!」とツッコむ。そこに笑いが生まれる。

これはなんだかんだ最も基本的なお笑いの形式ということができる。
日常で友達と話す時も、時にこういう意外性のあることを急に挟み込んだりすることでちょっとしたユーモアを挟み込んだりするものだ。

意外性お笑いは、日常に溢れている。

緊張からの解放による笑い

さらに、笑いを形作るもう一つの重要な要素が「緊張と解放」である。たとえば、違和感のある行動が連続して続き、その違和感がどんどん積み重なっていく。観客は「これは一体どうなるんだ?」と緊張感を高める。そして最後に、ツッコミやオチでその違和感が解消されると、一気に緊張が解放され、大きな笑いが生まれる。

この笑いには快感があり、それまでのストレスが一瞬で霧散するような感覚が伴う。

これは、現在の漫才で多く見ることができ、例えばボケがよくわからない行動をしていて、そのボケの行為を後からツッコミが説明するというパターンがある。
霜降り明星とか真空ジェシカとかが、この形である。

観客はボケが何かをしている間、「これは何してるんだろうか、、、?」という気持ちを募らせ、ツッコミが「いや、リアス式海岸か!(霜降り明星)」と説明することで、一気にその気持ちが解放される。

緊張感の高い場面(冠婚葬祭)で不意に笑ってしまいそうになるのは、その緊張感ゆえに、ちょっとでも意外なことが起こるとその弛緩と緊張感のギャップが大きく、ゆえに簡単に笑ってしまいやすくなるのではないだろうか。

結論

笑いとは、共感、意外性、そして緊張と解放が織りなす複雑な現象だと考えることにして結論にしよう。それは単なる感情の反射ではなく、人間同士の関係性や社会性、そして知性を反映するものである。笑いを作るためには、まず共感で観客を引き込み、安心感を与える。その土台の上で意外性を展開したり緊張を解放したりすることで、観客はより深い笑いに到達する。このプロセスは、まるで音楽のようだ。和音が響き合い、旋律が揺れ動き、最後に一つの大きなクライマックスを迎える。笑いは、人間という楽器が奏でる最高のハーモニーである。

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