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本当に、移動する人はうまくいくの??

最近、『移動する人はうまくいく』という本が流行っている。

僕もこの本をざっと読んでみて、「確かにそうだ」と自分の経験に当てはめてみて感じる部分が多かった。

では、「なぜ移動する人はうまくいくのだろうか??」

それは、人間は移動するように作られた生き物であるからではないだろうか。


人間が定住生活を始めてから約1万年がたつ。
二足歩行する初期人類は遅くとも400万年前に出現していたらしいので、まだまだ人間が定住生活を始めたのは人類史においてはここ最近のことである。

この事実を僕は、『暇と退屈の倫理学』を読んで知った。

人類は、定住生活を行う前は遊動生活をずっとしていた。

生まれてからずっと定住生活をしている現代に生きる我々は、「人類は定住生活がしたかったが食糧生産を安定的にできなかったためにできなかったのだ」という定住中心主義に陥ってしまいがちであるが、
歴史を考えれば、あくまでも人間は「大きな気候変動の末に、食料の貯蔵を迫られた結果、仕方なく定住をした」のである。

定住生活が人類に何をもたらしたのかについて、國分先生は次のように述べている。

 新しい環境に適応しようとするなかで、「人の持つ優れた探索能力は強く活性化され、十分に働くことができる。新鮮な感覚によって集められた情報は、巨大な大脳の無数の神経細胞を激しく駆け巡ることだろう」。
 だが、定住者がいつもみる変わらぬ風景は、感覚を刺激する力を次第に失っていく。人間はその優れた探索能力を発揮する場面を失っていく。だから定住者は、行き場をなくした己の探索能力を集中させ、大脳に適度な負荷をもたらす別の場面を求めなければならない。
 こう考えれば、定住以後の人類が、なぜあれほどまでに高度な工芸技術や政治経済システム、宗教体系や芸能などを発展させてきたのかも合点がいく。人間は自らのあり余る心理能力を吸収するさまざまな装置や場面を自らの手で作り上げてきたのである。

~~(中略)~~

 「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである。」いわゆる「文明」の発生である。

『暇と退屈の倫理学』/ 國分功一郎

なるほど。人類は、定住生活を始めて「退屈」するようになってしまったからこそ色々な文明を作らざるを得なかったのである。

遊動生活においては、ゴミや排泄物をその場にポイ捨てしてもどうせ移動するからどうでもいいことであるが、定住生活においては、ゴミはゴミ捨て場に分別して捨てたり、排泄物はトイレにきちんとする必要がある。

しかし、人間は本来移動する生き物であるから、ゴミを分別してきちんと捨てることや、排泄をトイレできちんとすることはなかなか身につかないのである。


そう考えれば、定期的に自分の生きる環境を変えれば(つまり移動をすれば)、人生がうまくいくということにも少しは納得がいく。

定期的に、人間は自分自身の探索能力を発揮する機会を得ることができ、退屈と一時的に無関係になれるのだ。

僕は、同じバイトを大体1年で飽きるということにだんだん気づいてきた。居酒屋バイトも、インターンも大体1年経った頃にそろそろ辞めるかと思うようになった。

定期的にバイトを変えることは、今まで知らなかった職場環境を知ることになり、かなり面白い。(僕にとってイベントバイトは、かなり面白かったし楽しい経験だった)

確かに、同じ環境に居座ることは退屈を生み出すし、環境を変えることは自分の探索能力を大いに引き出してくれる。新しい環境に踏み込むのはいつだってワクワクするものだ。


また、同じ環境にずっといるといいうのは、「支配者にとって都合のいいこと」であるということに我々は気づかなければならない。

支配者は、支配されるものが移動できないからその人たちを支配できるのであって、もしその人たちが自由に移動できるのであれば、彼らを支配することは決してできない。

同じ環境でずっと働くことをよしとする、そういう考え方は支配者にとって都合のいい観念でしかないのである。

つまり、「定期的に生きる環境を変える」ことは、「支配されないで生きる」ということにつながる。

「支配されずに生きる」ことは、「自由に楽しく生きる」ことにつながっていき、それすなわち、「移動する人はうまくいく」ということであるのだ。

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