初めての自宅葬
葬儀司会を始めて間もないミレニアムイヤーの2000年お正月。遠くの業者様から葬儀依頼が入りました。
21年前の私は、どんな葬儀司会者だったのでしょうか。
ニュータウン内の自宅葬
お正月のキ~ンと冷たい風が頬を指す2000年1月4日、私は、常磐線佐貫駅のホームに降り立ち、初めて竜ケ崎線に乗り換えました。行き先は、竜ケ崎ニュータウン内にある自宅葬の現場です。竜ヶ崎駅まで葬儀社の方が迎えに来てくださいました。
当家に着くまで、竜ケ崎界隈の葬儀の現状などを聞きながら、さも、ベテラン司会者を気取りながら、私は現場に向かいました。
今に思えば、司会者を駅まで送迎してくれる葬儀社など、よっぽど大きな社葬か何かで、遠方から司会者を依頼した場合以外はあり得ません。それだけ、お正月の葬儀は司会者が足りなかったのでしょう。
当家に着くと、私はまず祭壇にお線香をあげ、そして、ご遺族の方と打ち合わせを始めました。
亡くなった方はお母様で、お父様は数年前に他界されております。お子さんはお嬢様二人、既に東京へ嫁いでおり、ここ数年は、お母様お一人で竜ケ崎に暮らしていました。昭和五十数年ごろ、竜ケ崎ニュータウンに家を買い、家族四人で引っ越しをしてきた典型的な核家族です。
親戚の方はみな遠方に住んでいます。ご近所の方も、皆同様に、家族4,5人の核家族で、父親は常磐線を乗り継ぎ、1時間半を掛けて都内の会社へ通勤し、母親は専業主婦という家庭です。子供が大きくなり、長男夫婦が同居する場合は珍しく、老夫婦だけになり、という団地そのものが高齢化している現状が見えました。
ご自宅の小さな中庭から八畳の和室に上がる吐きだし窓の所に焼香台を設置し、司会台とアンプはその脇に設置しました。
庭の立木と隣家との境界の策があり、司会者一人が申し訳なさそうに立てるスペースしかありません。幸いに竜ケ崎は温かく、庭の土に霜柱が立つということもなく、乾いて固くなっていました。
そこで私は、先ほどご遺族の方に聞いた故人様の情報を元に、開式前のナレーションと出棺の準備を整える際のナレーションを考えていました。
お亡くなりになったのは、昨年の12月31日の未明、お正月三が日葬儀は憚れることから、昨夜、お身内でのお通夜、そして、今日4日の葬儀告別式、後火葬となりました。
庭は南に向いていて、温かな日差しがあります。それでも、ペンを持つ手は冷たく悴み、思うように文字が書けません。使い捨てカイロを持ってこなかったことを後悔しながら、昨夜の内にある程度作っておいたナレーション原稿に、今ほどご遺族から聞いたお話を付け加えておりました。
ご住職との打ち合わせ
そうこうしているうちに、ご住職がお見えになりました。葬儀社の担当者が私のところにやってきて、「それじゃ、住職と打ち合わせしてきて」と言い、いなくなってしまいました。打ち合わせで聴くことは決まっています。自宅葬の場合、導師入退場をするかどうか、導師の紹介の仕方、焼香のタイミングなどです。
二階建ての建売住宅の一階は、和室は八畳一間しかなく、あとはリビングダイニングとキッチン、バストイレとなっています。住職の控室はなく、祭壇前にいらっしゃいました。
「本日、司会を致します〇〇〇〇と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
「見慣れない顔だけど・・・」
内心焦りながら、言葉は丁寧に落ち着いたふりをしながら、
「水戸から参りました。県南の方は不慣れですから、どうぞよろしくご指導の程お願いいたします」
県南が不慣れなんじゃなくて、葬儀そのものが不慣れなんだけどね~と思いながら住職に応えました。
「お正月で司会者いないんだね。遠いところ大変だったね」
「ありがとうございます。葬儀社さんに駅まで迎えに来てもらいました」
あ、余計な事を言ってしまった、と思いながら、
「それでは、お打ち合わせの方、よろしくお願いいたします」
と言って、精一杯葬儀司会者の雰囲気を醸し出しながら、住職と打ち合わせをしました。
開 式
ご葬儀の開式時刻は午後1時です。葬儀終了次第、お別れの花を柩の中に入れて、遅くても2時半までに出棺というスケジュールでした。
ご親族の方が、リビングから和室へご移動し、一般の会葬者の方は、中庭に集まって参りました。
住職入場は、リビングから和室への短い動線です。開式3分ぐらい前にナレーションを始めました。
「新しい年が明け、まだ松の内のこの時期に、大切な方をおくる葬送の時を迎えることは、かえって寂しさが募ります。新しい年を迎えることなく大みそかの未明午前3時27つ分、○○様が静かにお浄土へと旅立たれました…。大正、昭和、平成と三つの時代を懸命に生き抜いてまいりました…。どうぞ皆様、故人のありし日のお姿に思いを馳せて頂きながら、只今からの葬送の時、お心静かにお過ごし下さいませ。間もなく開式のお時間でございます」
ナレーション文例集にあった言いまわしを引用させていただき、葬儀が始まりました。
「導師、ご入場でございます。ご一同様、合掌を持ってお迎え下さいませ」
最初の関門、導師入場のタイミングは、ばっちりと合いました。ご住職が払子を振って祭壇前に着座します。
「只今より、故○○様の葬儀並びに告別式を喪主○○様のもと、謹んで執り行います。お勤めをいただきます御導師は、○○家菩提寺でございます曹洞宗○○寺ご住職でございます」
噛むことなく言えてホッとし、鼻から大きく吐いて、しばらく読経を聞いておりました。口から息を吐くと周りに聞こえ、緊張しているのが分かってしまうので、鼻呼吸をしているのです。
さあ次は、お焼香のタイミングです。ご住職が祭壇前でおもむろに立ち上がり、長線香を回し始めました。そして、引導文を読み上げ、「かーっ」と力を込めました。何をやっているのか、さっぱりわからないままあっけに取られていました。住職が着座して短いお経を読んだかと思うと、脇に置いてある座布団へずれました。
「これより、お焼香のご案内をさせていただきます。喪主○○様」
長女のご主人が痺れる足で前に進み、住職に頭を下げ、立て膝で祭壇前の座布団へ移動して行きました。そして、前机の香炉でお焼香をしました。つぎに、吐きだし窓の外に置かれている焼香台の前に移動しました。予め座布団を四枚用意しておきました。
「ご親族ならびに一般ご会葬の皆様、どうぞ、お焼香へとおすすみください」
私がアナウンスをすると、葬儀社のレディさんが、庭に散らばっていた会葬者を焼香台へと案内してくれました。
会葬者へ答礼をする長女夫妻と二女夫妻が前机で焼香をし、他の親族は、回し香炉で焼香をしていました。
そして、外の会葬者は、外に置かれた焼香台でお焼香をしました。
三十人ぐらいの会葬者がお焼香を済ませ、私は、
「ご会葬の皆様でお焼香お済みでない方は、どうぞ、お焼香をお願い申し上げます」
とアナウンスし、誰もお焼香に出てこないのを確認した後、答礼をしていたご遺族を元の席へ促しました。
ご住職が祭壇前に復座し、そして、払子を振って退席となりました。
「導師、ご退席でございます」
本来、寺葬であれば、「退堂」セレモニーホールであれば「退場」という所ですが、自宅なのであえて「退席」にしました。
出 棺
これからが出棺の準備です。葬儀社の男性社員が柩を前に出し、レディさんがご供花を手際よく摘んでいきます。
私は手伝おうかどうか迷いましたが、言われていないことに余計な手出しをすると墓穴を掘ると思い、そのまま、司会台の所で、弔電を奉読し、その後は、先ほど考えた短いナレーションを入れました。
故人様はお花がお好きだったことなどを枕詞のようにして、花入れへと誘うナレーションにしました。
母親の死は、誰にとっても辛いものです。泣きながら別れ花を入れるご親族の方々を見ていたら、私まで鼻の奥がつ~んと熱くなり、涙がこみ上げてきました。司会者は泣いちゃいけない、と思いながら、
「お名残は尽きぬことと存じますが、柩の蓋を閉めさせていただきます」
そう言って、ご遺族の皆様が、柩の蓋に手を掛け、足元からゆっくりと蓋を閉めました。
「皆様、合掌をお願います」
「お直り下さいませ」
この地域では、柩に釘を打つことはせず、そのまま和室の吐き出し窓からご親族の男性の手によって柩が庭先へ運びだされました。
いよいよ、霊柩車に柩が乗せられご出棺です。ここで、親族たちはマイクロバスに乗り、お見送りの会葬者は、玄関先でお別れです。
「故○○様、霊柩お旅立ちでございます」
ファ~ン、と霊柩車のクラクションが悲しく鳴り響き、会葬者が合掌をして霊柩車を見送りました。
出棺後
「皆様、本日は最後までご会葬賜りまして、誠にありがとうございました。お気をつけてお帰り下さいませ」
やっと終わった、とホッとして冷え切った手と手をこすり合わせました。
しかし、仕事はここで終わりではありません。ご住職が帰り支度を整えたのを見計らい、玄関先に停まっているタクシーまでお見送りいたしました。
「お疲れ様でございました。お世話になりました」
と、挨拶をすると、
「あなた、いい声しているね」
と、ご住職が声を掛けて下さいました。
「あ、ありがとうございます」
鳩が鉄砲玉を食らったような顔をして、私はお礼を言いました。
司会の内容は別として、声だけ褒められた!と正直嬉しくなりました。タクシーが動き出すまで、自分のつま先を見つめるくらい腰を折りお辞儀をして、そして、タクシーが動き出し、十字路の角を曲がり見えなくなるまで、見送りました。火葬場へ行ってしまった当家様には、ご挨拶は出来ないままでした。
帰り道
朝、迎えに来てくれた担当者は火葬場へ行ってしまったので、違う人が私を駅まで送ってくれました。後で分かったことですが、送ってくれた方は葬儀社さんの社員さんではなく、返礼品業者の方でした。
「ありがとうございました。また、よろしくお願いいたします」
と言って、竜ケ崎駅前に立ち、急いで帰っていくバンを見送りました。
閑散とした駅前で一人になりました。特に大きな失敗をした訳ではありませんが、心が何となくそぞろとしています。
「誰も何も言ってくれなかったけれど、あれでよかったのかしら?」と、
一人で入った葬儀司会の出来栄えを評価してくれる人も無く、半分不安な思いを残したまま、佐貫へと向かいました。
下りの常磐線に揺られ、私は水戸を目指しました。お正月の夕方は早くやって参ります。気がつくと、左側の車窓の彼方に、筑波山の稜線が見えました。オレンジ色の夕日を浴びて、濃い紫色の影を落としています。
「筑波山か・・・」
とたんに、言いようのない懐かしさと寂寞の想いがこみ上げてきました。
小学校入学まで、筑波山は、私の視野の中に存在しておりました。親戚が来るたびに訪れていました。
あれから三十年の月日が流れ、私は、葬儀司会を仕事とするようになりました。筑波山は、昔の美しい姿のままで、関東平野の西に鎮座しています。「悠久と無常、人は必ず死ぬ、死んでから出来るご縁で、私は故人様の葬儀司会をする」
それまでの不安な気持ちは消え去り、決心とも言えるような、気持が落ち着いているのが分かりました。
「大丈夫。やっていける」
私は、夕闇の中に消え入る筑波山をずっと眺めていました。
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