見出し画像

2011年3月11日

10年前に書いた文書を見つけました。3月11日、その日は友引で、会社のスタッフとミーティングをしていたのを思い出します。
そして、午後3時から水戸でヨーロッパ心理学会に持っていく論文の英訳を添削してもらおうと知り合いの英会話教室の先生のところに行く途中、あの地震に見舞われました。

私は運転中で、始めは竜巻に巻き込まれたのかと思い、路肩に車を停めていたら、ぐわんぐわんと車が波打ち、ちょうど、遊園地にある固定された車の乗り物が上下に動くような感じで揺れていたのを覚えています。


10年前の葬儀の現場


三月は、早く春の訪れる年もあれば、なかなか春めいて来ない年もあります。今年2011年は、梅も早く咲き、順調に春になると思った矢先、3月11日、東日本大震災に見舞われました。
茨城も報道こそそんなにされておりませんが、甚大な被害を被った県です。それに増して、福島第一原発の影響が風評被害となり、農産物の流通もままならない状況になってしまいました。ここから20キロメートルの場所にある日本で原子力の炎が最初に点った東海村を思うと、脱原発依存を声高らかに言えない現状があります。
震災前のナレーションの冒頭は、春に相応しい情景描写で始まっておりました。

葬儀ナレーション

「朝の深い霧も晴れ、温かな日差しが春の到来を告げております。梅もいつの間にか咲き誇り、下草の中から福寿草が黄色い顔をのぞかせております。季節は巡り、生きとし生けるものは命を芽生えさせる季節がやって参りました。しかし、生あるものはやがて終焉を迎える定めでございます。」

「梅も満開となり、常陸太田の山々に温かな春の日差しが降り注いでおります。古に黄門様が梅里と名乗ったように、この下の西山荘にも梅が咲き、馥郁とした香りを漂わせております。硬いつぼみがいつしかほころび、花が咲き、やがて実を結び、そしてその実が落ちるように、人の命も生まれ、育まれ、成熟し、やがて土へと帰って逝かれます。」

「弥生三月となりました。しかし、昨夜の雪で雨引山の稜線は白くなっております。三寒四温を繰り返しながら、季節は春へと向かって参ります。真壁のこの地は、家々に飾られたお雛様を見る観光客が路地を行きかっております。梅から桃の花へ、春はやさしい木々の花が咲く季節でございます。一つ一つの自然の中に神が宿ると申しますが、人もまた神となる時がやって参ります。(神式)」

「頃藤の里にも温かい日差しが差し込めております。しかし、風は冷たく頬にさし、春と呼ぶにはまだ早い感がありますが、今日は桃の節句。四季折々の中で、子供の成長を願う伝統行事が息づき、大子ではお寺の百段の階段にお雛様が飾られております。」

3月11日~12日

3月11日の夜の寒さを今も思い出します。電気の止まった家では、炬燵もファンヒーターももちろんエアコンも使えず、円柱形の石油ストーブがただ一つの暖房でした。
その上にヤカンを載せて、オレンジ色に淡く光るストーブに手をかざして暖を取りました。灯りは葬儀社から頂いたブロンマ型(ハスの花の形をした蝋燭)の蝋燭をいくつか灯し、次々と起こる余震に寝ることも出来ず、たおやかにゆれる蝋燭の炎を眺め、ラジオを聞きながら地震と津波で多くの命が亡くなったであろうことに心を砕いておりました。

次の朝、車で取引先の5か所の葬儀社を回りました。常陸大宮の業者から常陸太田、日立方面へ。そして、山を越えて大子に向かいました。
液状化した田んぼの中の農道を通り、橋と道路の間は10cmから15cmの段差ができている道を徐行しながら業者様のところへ急ぎました。
電話連絡が出来ない今、まずはこの目で状況を把握するしかありません。今後、この震災が葬儀にどのような影響を与えるだろう、故人様は待ってくれないから、と思いながら車を走らせておりました。
従業員、スタッフにはどうにかメールで連絡が取れ、安否確認と仕事の中止を伝えることができましたが、昨日お通夜の会場へ向かう際、津波の恐怖におびえながら車を走らせていたスタッフがいたことを後から知り、申し訳なさと仕事に対する使命感の強さに頭が下がりました。

震災で亡くなった方の葬儀

震災後、弊社でも震災で亡くなった方、4人の葬儀を担当しました。
県内で亡くなった方がお二人、宮城で亡くなりご遺体を茨城へ搬送してからのご葬儀がお二人でした。
「どのようなナレーションつければいいのですか?」と弊社の司会者に聞かれましたが、
「ご遺族の方が会葬者に伝えたいことをお伝えするしかないわね」と答えるのが精一杯でした。

私にもご遺族の状態がどのようになっているか、想像ができません。交通事故などの突然の死による喪失感と今回の地震や津波による死は何が違うのか、「底なしの意味喪失感」とアウシュビッツに収監された心理学者のフランクルは言うように、遺族の計りしれない喪失感を思うと、言葉にならないのが正直なところでした。

震災直後は、いつにも増してお亡くなりになるご高齢の方が多くなりました。折からの寒さと震災によるストレス、そして入院されていた方は、病院そのものが被災し、十分な看護が受けられなかったケースも見受けられます。
葬儀社のセレモニーホールが被災したため、地元の公営斎場のみで、フル回転で葬儀告別式が執り行われました。あっという間にお彼岸になり、学校の終業式や卒業式もひっそりと行われ、そろそろ桜の便りが聞かれる頃と思いつつ、春が震災により一時中断されてしまったのでは?と思うほど、3月中に桜の便りは聞かれませんでした。

震災後の葬儀式のナレーションの出だしは、やはり、震災に触れないわけにはいかず、以下のような冒頭部分で始まりました。

「震災から徐徐に平常の生活を取り戻しつつある頃藤の里でございます。しかし、その傷痕は大きく東北地方では多くの尊い命が奪われてしまいました。生老病死は人の定めとは言え、突然に散る命は悲しみに耐えません」

「大自然の脅威の前になすすべもなく、全てが瓦礫となり・・・・しかし時が経つにつれ、人々は立ち上がり、生きるすべを見つけてまいります。人の命のはかなさと同時に力強さを感じさずにはいられません。人は誰でも力の限り、その人生を生き抜きます」

「春のお彼岸も今年はご先祖様に手を合わせる人影もまばらに、墓石が倒壊したままになっております。震災の爪痕は大きく、余震が続く今、心の中で手を合わせご供養なさっているのでしょう」

「春のお彼岸も過ぎ今日は二十七日、間もなく桜の便りも聞かれる頃でございましょう。今年は例年より開花が遅れているようでございますが、震災後、花に気持ちがおよばすにおりましたが、季節は留まることなく移ろいゆきます。筑波山を眺めれば、いにしえから変わりなく美しい紫峰に心癒されます」

故人様を思い司会をするとき

毎日、葬儀式に携わっていると、非日常であるはずの葬儀が日常と化してしまいます。今日もまた、ご遺族に故人の人となりを伺い、その方の生前に思いを寄せ、湧き上がってきた言葉をナレーションとして文章化していきます。
そうした中で、故人が生前お好きでよく召しあがられていた物をお伺いする機会がございます。
「お母様、何かお好きな食べ物でよくお召し上がりになっていた物はありますか」
ちょっと遠くを見る目をして、お嬢様が答えます。
「そうね~、甘いものが好きで、特にアンパンが好きだったのよね。お母さん、もともと東京生まれでこっちに嫁いだんだけど、銀座の木村屋のアンパンが好きだったみたいよ。でもね、糖尿になってからは、アンパン食べられなくなってしまったからね~」
祭壇に、お膳が供えてありますが、ご飯とお水だけです。私はアテンダントをするスタッフに指示を出し、近くのコンビニでアンパンを買って来させました。そして、そっと故人様のお膳にアンパンをお供えしました。


また、こんなこともありました。
「お父様がお好きだった食べ物やよく召しあがっていた物はありますか」
「う~ん、何一つ贅沢することのない父でしたから、食べ物も好き嫌い言わずに出されたものを食べていました」
と、答えたお嬢様が、ハッと何かに気付いたご様子で、
「父は、コーヒーが大好きで、一日に何杯も飲んでいました。入院中に、『コーヒーが飲みたいなぁ』って、ベッドでつぶやいておりました」
と、聞かせて下さいました。お膳を見ますと、ご飯とお茶が供えてあります。私は、ホールの自動販売機で缶コーヒーを買ってお膳にお供えさせていただきました。


生前に何の接点もなかった私ですが、こうして故人様のご葬儀に司会をさせていただくご縁を、お好きだったものをお供えすることで私のせめてもの感謝の気持ちが故人様に伝わるのでは…、と考えております。
ご遺族様も、開式前の忙しい時間ですから、どうしても葬儀式を滞りなく行う事に神経が向かっております。

司会者が故人様についてお伺いすることで、大切な方のご生前のちょっとしたご様子を思い出される事があるのだと思います。
身近な人でも、一緒にお暮しになっていない場合が多く、特に嫁がれてしまってから三十年以上経過してしまうと、自分の親がどのような人だったのか、思い浮かばないお子様たちもいらっしゃいます。そのような場合は、ご近所の方のお話を参考にさせていただきます。


私は今、自分の両親と一緒に暮らし、近くには兄家族が暮らしております。姉は、18歳で家を出て、大学、就職、結婚と家に戻ることなく生活をしております。それでも、両親と海外旅行に出かけたこともあり、ゴールデンウィークやお盆、お正月に家族そろって顔を出しておりましたが、子供の成長と共に、なかなか実家へ足が向かなくなって参りました。
姉の子供が早くに結婚し、姉自身がおばあちゃんとなった今、娘の帰りを楽しみに待つ立場となり、孫の世話をすることに、喜びを見出しております。実家から遠のくのは当然です。どこの家族も、そうして世代交代をしていくのでしょう。

私が大学生だった頃、久しぶりに母の実家の浦和に行った時、祖母が急に年老いたのを実感し、人知れず驚いた経験があります。
間もなくして、祖母は七一歳で亡くなりました。お寺のご詠歌の練習中に、心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取りました。
身内の死は、必ず手の届くところにあるのでなく、臨終に立ち会えるのは限られた身内しかおりません。だからこそ、離れて暮らす家族に思いを馳せ、看取ってもらえる家族への感謝を忘れないでいることが大切なのだと思います。

10年前の私は、こんなことを考えながら葬儀司会をしていたのですね。

ここには記しておりませんが、毎日、火葬場に行き、火葬立会をしておりました。葬儀はできないけれど、火葬だけしておかなければ、と福島からご遺体が茨城にも回ってきたのです。

あれから10年。一般会葬者は式に参列せず、焼香をして香典を付けたら帰るという葬儀に変わりました。コロナ禍では、式場の三密状態を避けるために親族のみの式になったのです。

厳しい所では、火葬場への立ち入りは、親族10人までというところもあります。

震災、原発事故(実は東海村のJCOの時も大変でした)、コロナ禍と会社を設立してから今までの間に、様々な災害があり、それにより少ながらず仕事も変化を遂げてまいりました。

コロナがインフルエンザ化し、共存できるようになるのはいつでしょうか。人間がワクチンとできればリレンザのような薬ができて、コロナに罹っても恐ろしくない状況に早くなってほしいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?