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『コーヒーについてぼくと詩が語ること』出版にあたって。

9月1日に出版される『コーヒーについてぼくと詩が語ること』。
本ができあがるまでの間、編集者が、著者であり書肆梓代表の小山伸二に行ったインタビューをここにまとめて公開します。

最初に、書肆梓の代表者としての小山さんに質問です。         書肆梓を始めたきっかけは何ですか?

いちばん最初は、自分の詩集の私家版を作ろうと思ったのがきっかけですね。デザインもすべて、ひとりで手作りしました。おそらく、そのときに「書肆梓」という出版社名を思いついたのだと思います。

どのような出版社ですか? 詩集が多いようですが、詩集以外も出版されていますね。

詩集の私家版を作るということからスタートしたので、その後、自分の本だけではなく、詩人仲間の詩集を数冊、私家版として作りました。その時点で、デザイナー(福井邦人さん)に参加してもらい、印刷・製本し、ISBNコードも取得しました。
その後、文学系の文化雑誌の編集や、画本、そしてブックレビューといった一般の文芸書など、少しずつジャンルも広がっています。

今回のコーヒー本『コーヒーについてぼくと詩が語ること』は、書肆梓にとって、どんな本となりますか?

今回の本は、個人的には詩集以外の初の書籍になります。
もともと、ぼく自身はコーヒーだけではなく、食文化関係の仕事をやってきていて、「食」 の分野の本も作ろうと思っていたので、今回のコーヒー本は、書肆梓にとって、ジャンルを広げるということにもなりました。

次にコーヒー本の著者としての小山さんに質問です。          この本をどんな人に読んでもらいたいですか?

コーヒーは、さまざまな年代の人に愛されている飲料です。そして、若い世代にも、昭和時代の喫茶店文化、コーヒー文化が、単なるノスタルジーを超えて、関心を持たれているのだと思います。
そんななか、まだまだ語られていないコーヒーやカフェの魅力、とくに文化的な魅力があるのではないか。それをぼくは、「コーヒーの光と影」という視点で語っていますが、そういう話を、若い世代のコーヒーやカフェの愛好家、そしてコーヒー業界で働いている方々に読んでもらえたら、と思っています。

このコーヒー本のタイトルは途中で変更になりましたね。       『コーヒーについて語るときにぼくが語ること』(What I talk about when I talk about coffee)と、英文タイトルも” I ”だったのが、『コーヒーについてぼくと詩が語ること』(What we talk about when we talk about coffee)となり、”We”に変わりました。ここでいうWe(ぼくたち)とは、古今東西でコーヒーについて書いている詩人たちのことでしょうか?

そうですね。最初は、この20年くらいの間に、ぼくがいろんなところで講演したり、寄稿したコーヒーの話をまとめた本だったので、「ぼく=I」が語るコーヒーの本、というタイトルにしようと思ったのですが、編集作業が進むうちに、引用している「詩」や、直接引用していなくても、大きな影響を受けた多くの書き手たちの声が、ぼくの長いお喋りのなかに混入していることに、気づきました。
つまり、決してぼくひとりの「語り」ではなく、ある意味、「われわれ」の語りなんだと。
そこで、この本の中心的なテーマにもなっているコーヒーについての、さまざまな複数の声を「詩」が発する声だとして、「ぼくと詩」が語る、つまり、「We」の語りになりました。

詩という文献は記録に残りやすいのでしょうか。            どんな条件でセレクトされたのですか?

そもそも、古代において詩は、単なる文学を超えて、歴史書であり、公式文書でもあったのですね。たとえば食文化の歴史を眺めると、大勢の詩人たちが登場します。そして、彼らの具体的な作品を通して、当時の食卓の風景や、あるいは農業の現場のこともわかったりするんですね。
そういう意味では、コーヒーという特殊な飲料が世の中に突然のように出現した中世のイスラーム社会でも、詩人たちが大活躍したようです。
まず、中世のアラビアの詩人たちから始まって、20世紀初頭までのアメリカの詩人の作品は、ウィリアム・H・ユーカーズの『オール・アバウト・コーヒー』をガイド役にして紹介しました。
他には、ぼくが好きな詩人たちのコーヒーの詩や、自作の詩をちりばめました。ただし、アンソロジーとして俯瞰的に詩を選んだというよりも、やはり、ぼくの語りたい物語にふさわしい詩をセレクトしていったのだと思います。

小山さんにとって詩とは、そしてコーヒーとは何ですか?

難しい質問ですね。
詩は、自分で書いているわけですが、いまもって、「詩とはなにか」、わかりません(笑)。それは、もう何十年も生きているわけですが、いまだに「生きる」とはなにか、さっぱりわからないのに似ているかもしれませんね。
ただ、今回の本を書き上げて思ったことは、どうやら、詩とは、ぼくが考えていた以上に、もっともっと大きな存在だということです。もちろん、詩とは、文学という芸術ジャンルのひとつです、と言うことはできる。その詩のなかには、親しみやすいものから、ちょっとなにが起きているのか、意味もわからない、途方にくれるしかない芸術性の高い作品もあります。
さきほどもお話したように、そもそも詩とは、ほぼ、文学全体、文学そのもの、あるいは、上手に物事を記述すること、語ることであり、それは、言葉そのものであり、コミュニケーションそのものと言ってもよかった。だから、中世のアラビアの時代から、詩人たちがこぞってコーヒーの詩を書いてきた。
そういう意味では、現在においても、詩はいろんなところに生きているし、いろんな姿をしている。「詩」は、あるときには危険な毒をすら持って、ぼくたちに、嘘の情報や、感情を植え付けようと虎視淡々としているかもしれないですね。

で、詩の話はこれくらいにして、コーヒーですが。これは、まさに、この本を読んでいただくしかないのですが(笑)、ぼくは勝手に、詩とコーヒーを同じテーブルにのせて眺めるということをやって来ました。
どちらも、それがなくても生きていけるけど、それがないと物足らない。寂しい、いや、それなしでは、やはり生きていけない、となるのではないか、と。
これは食べ物でいうと、生命維持のための「食」と、食を楽しむ、美味しいものを食べる文化、あるいは仲間と一緒に食べることの楽しさ、という嗜好品文化につながっていきます。
嗜好品文化とは、まさに、文学、音楽、演劇、映画などといった芸術や、あるいは、ざっくりといったら「娯楽」です。娯楽は、天変地異、戦争、そしてこの、コロナ禍のような事態のなかでは、不要不急なもの、さらには「贅沢は敵です!」といったものにされてしまいがちです。         コロナ禍という異常事態が世界で同時進行している現在、詩とコーヒーを並べて考えると、より意味深なつながりにも思えてきます。

小山さんが、コーヒーをいちばんおいしく飲めるのはどんなシチュエーション? どんなときのどんなコーヒーがお好きですか?

気持ちに比較的余裕があるとき、たとえば夜、お酒をたくさん飲んだそのあとに、とびっきり濃い珈琲(と、漢字で書きたくなるようなコーヒー)をちびり、ちびり飲む、というのは好きですね。
もちろん、朝、熱々のコーヒーをがぶがぶ飲むのも好きですし、仲間たちと夏山登山をして、山の水で淹れる一杯もいいですね。

いまはコーヒー焙煎もされていますね。深煎りの。
深煎りの魅力は何ですか?

コーヒー焙煎は、本のなかでも書きましたが、実は20代前半から40年ずっと、やって来ました。基本的にその頃から、自分の家で飲むコーヒーは、ほぼ自分で焼いたものでした。
自分で焼くので、いろんな焼き方を試してみましたが、やはり、かなり初期の段階で、コーヒーは深煎りに限ると思い、以来、ずっと自分のために焼くコーヒーは深煎りだけ、ですね。
深煎りの一番の魅力は、深くローストされたコーヒーの香りや味わいは、コーヒーにしか出せないものだと思うからです。
いっぽうで、最近、世界的に流行している浅煎りのコーヒーの生み出した、微妙な香りの差異を楽しむ、まるでお茶やワインの嗜好文化に肉薄した素晴らしい新境地が、どうもぼくには、コーヒー以外でも達成できる(あるいは、本領を発揮している)ものを追求しているように見えるのです。
嗜好品なので、そういう新境地にはエールを送りたいと思いますが、それがコーヒーのすべてだと、万が一にでもそう思い込んでいる人がいたら、残念だなあ、と思っています。筋金入りのスゴ腕の職人(ぼくじゃないですよ!)の手による、深煎りのコーヒーの香りとコクをぜひ、体験してみてほしいなあ、と思います。 

ありがとうございました。


以上のインタビューは、今回のコーヒー本では編集を担当し、書肆梓から『月の本棚』を出している清水美穂子さんによるものです。


『コーヒーについてぼくと詩が語ること』は9月1日、BASEにて発売。
順次、書店でも販売予定です。ご購入、販売についてのお問い合わせは
shoshi.azusa●gmail.com  ●を@に替えて送ってください。

本の内容はこちらでご覧いただけます。


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