【犬の短篇8】ジャスミンとタワシ
犬は、見分けがつかない。
犬種も毛の色も体格も同じなら、飼い主でさえ見分けるのは難しい時がある。
だから、こんなことが起きても不思議ではないのだ。
ジャスミンは、ふかふかのベッドで気持ちよさそうに寝返りをうった。
ジャスミンは茶色い毛のトイプードルで、平均的な大きさの成犬。
ジャスミンの飼い主は、わかりやすく金持ち。
仕事が忙しくほとんど家にいないが、ジャスミンにあらゆるものを与えてくれる。
家は、広い庭のある豪邸。
ジャスミン専用の部屋があり、広いベッドと風呂を完備している。
ジャスミンの食事は、最高級ペットフード。
週に一回、犬用のエステサロンでトリミングとマッサージ。
毎日一回、プロのペットシッターが来て、近所の広い公園まで散歩に行ってくれる。
ジャスミンは、そんな暮らしがずっと続くと思っていた。
しかし、ある日。
ジャスミンは、ペットシッターの男性に連れられて公園にやってきた。
いつもの道を歩いていると、男性がソワソワし始めた。
男性はジャスミンを連れて、公衆トイレの前にやってきた。
「ごめんジャスミン、すぐ帰るからね」
そばの木にリードをくくりつけ、男性はそそくさとトイレに入っていった。
すると、ちょうどそこに、一匹の大型犬が飼い主と歩いてきた。
大型犬はジャスミンに向かって大声で吠えかかった。
ジャスミンが驚いて飛び上がると、その勢いで木からリードが外れてしまった。
そしてジャスミンは、我を忘れて一目散に逃げた。
「ジャスミン、お待たせー」
ペットシッターが戻った時には、ジャスミンの姿はどこにも無かった。
ジャスミンは、広い公園をあてもなく歩いた。
無我夢中で逃げたので、帰り道がわからない。
その時、ひとりの男性が声をかけてきた。
「タワシ、こんなとこにいたのか。もう行くぞ」
動揺していたジャスミンは、その男性をペットシッターと勘違いした。
そして男性の車に乗り、公園をあとにした。
その日から、ジャスミンはタワシになった。
タワシは茶色い毛のトイプードルで、平均的な大きさの成犬。
つまり、ジャスミンとそっくりだった。
タワシの飼い主は、わかりやすく貧乏。
夫婦と3人の子どもが、狭くて古いボロ屋に住んでいた。
犬用の部屋などあるはずもない。
子どもたちがひしめく部屋の片隅に丸くなっているしかなかった。
タワシの食事は、家族が食べ残した残飯。
風呂に入れてくれないので、体が痒くて仕方ない。
散歩はめんどくさがって誰も行ってくれない。
やんちゃな子どもたちの追いかけっこやボール遊びに
無理やりつきあわされ、毎日ヘトヘトになった。
ジャスミンは完全にタワシと思いこまれ、タワシとして生きた。
逃げ出すことも考えたが、ここで待っていればいつか必ず飼い主が迎えに来てくれると信じて、タワシとしての生活を続けた。
ジャスミンは心から思った。
もう一度、ジャスミンに戻りたい。
そして、1ヶ月が過ぎた。
その夜、ジャスミンが部屋の隅で丸くなって寝ていると、ひっそりと一匹の犬が入ってきた。
ひと目見てわかった。
タワシだ。
1ヶ月前のあの日、タワシも家族に連れられて、公園に来ていた。
みんなで遊びに来るなんて珍しかったので、タワシは子どもたちと夢中になって遊んだ。
そしてはしゃぎ過ぎて、家族とはぐれて迷子になってしまった。
公園をさまよっていると、ペットシッターの男性に見つかった。
「ああよかった。ジャスミン、ここにいたんだね」
その日から、タワシはジャスミンになった。
どうしてここに戻ってきたの?
ジャスミンが尋ねると、タワシは答えた。
自分が金持ちの家の犬と間違われて暮らしているということは、
どこかの犬が自分と間違われて貧しい暮らしをしているに違いない。
それが申し訳なくて、戻ってきたんだ。
なんて優しいんだろう。
ジャスミンは深く感動してお礼を言うと、タワシに教えてもらった道順を歩いて、夜のうちに豪邸に帰った。
こうして、ジャスミンはジャスミンに戻った。
広い家に自分の部屋。
高級な食事。
トリミングにマッサージ。
適度な散歩。
しかし、ジャスミンはどこか物足りなさを感じた。
なんだろう。
何が足りないんだろう。
そして、ジャスミンは気づいた。
そうか。
足りないのは、家族だ。
タワシとして暮らしていた頃は、いつも家族と一緒だった。
狭い部屋で寄りそい、同じものを食べた。
子どもたちと日が暮れるまで遊んだ。
ジャスミンは気づいた。
タワシは嘘をついたのだ。
タワシも、最初は贅沢な暮らしを楽しんだのだろう。
でもしばらくして、もとの家の方がいいと気づいて帰ってきたのだ。
本当の理由を言うとジャスミンが戻ってくれないかもしれないから、嘘の理由を語ったのだ。
ジャスミンは、心から思った。
もう一度、タワシに戻りたい。
ふかふかのベッドが、前より冷たく感じた。