【犬の短篇1】散歩教習所
なま温かい爆弾をゆっくりとつかみあげた。
ビニール手袋をはめた指先が小刻みに震える。
大丈夫。
あと少しだ。
茶色い危険物を、もう片方の手に持つ袋へ慎重に移動させる。
よし、爆弾処理完了。
そう思った瞬間だった。
ワウ!
それまでおとなしく座っていた犬が立ち上がり、
何かの音に反応して勢いよく吠えた。
急にリードを引っ張られ、私はバランスを崩してしまう。
まずい。
柔らかい爆弾が、スローモーションで目の前のアスファルトに落ちる。
べちゃり。
「排泄物の始末、0点」
教習カードに記入しながら、教官の郡司が冷たく言い放つ。
「また頑張ってください。ま、ダメだと思いますが」
「あの、もう一回やらせてもらえませんか。今日ハンコもらえないと」
「お疲れ様でした。次回の予約とってからお帰りください」
さびれた駅前。
「証明写真撮ります」の看板が目立つ通りを歩くと、
「都立 犬の散歩教習所」の看板が目に入ってくる。
5年前。
犬の散歩のマナーの悪さがSNSで拡散し問題になった。
おしっこやウンチの後始末をしない。
リードをつけずに散歩する。
そんな飼い主の写真や動画をネットにさらす「散歩警察」があらわれ、社会の目は厳しさを増していった。
そんな中、ひとつの事故が起きる。
散歩中の大型犬が女児に噛みつき、大怪我をさせてしまった。
飼い主の男性がウンチの始末をしている時、一瞬リードを離してしまったのが原因だった。
男性はネットに本名や勤務先や家族の情報をさらされ、極悪非道の犯罪者として徹底的に批判された。
この事故が決定打になり、散歩のマナーを
厳格化すべきという世論が加熱。
犬の散歩を免許制にする法案が国会で可決され、
全国に散歩教習所が作られた。
システムは、自動車教習所のそれとほとんど同じだ。
教習は「学科」と「技能」に分かれる。
学科教習は、教室でビデオを見ながら散歩のルールや法律を学ぶ。
「だろう散歩ではなく、かもしれない散歩をしましょう」
技能教習は、教習所内に作られた散歩コースを、教習犬を連れて教官と二人で歩き回る。
大型犬を散歩したければ、大型免許が必要だ。
「いつになったら取れるのよ、免許」
妻は洗濯物を畳みながら、呆れた口調でつぶやいた。
「休日のたびに教習所行かれたらこっちも困るのよね。
翔也の塾もあるし」
「もうすぐだから」
「こんなこと言いたくないんだけどさ、
家族とお義母さんの犬、どっちが大事なのよ」
「あと少しで取れるから」
ワウ!
またか。
爆弾処理の最中にリードを引っ張られた。
べちゃり。
「はい、0点」
郡司が冷静に宣告する。
「ちょ、ちょっと待ってください。
この教習犬おかしくないですか?
毎回ウンチの始末中に吠えるなんて」
「排泄物の始末をする時は、不測の事態に備えてリードを手首に二重に巻くことをおすすめします」
「お願いします。早く免許取りたいんです」
「危ないですね」
「はい?」
「あなたみたいな人が免許とるのが一番危ないんです。
事故起こして加害者になったら、地獄を見るのはあなたです」
教習ノートをつきかえしながら、郡司は言い捨てる。
「予約とって帰ってください」
もう嫌だ。
なんなんだアイツは。
散歩の免許なんか。
いや、ダメだ。
私には、散歩の免許を取らなければならない理由があった。
「思ったより悪いみたいなの、私のがん」
実家のベッドに横になる母の体は、以前のぽっちゃり体型が嘘のように痩せていた。
「私が死んだあと、シロ、引き取ってくれないかしら」
母が生きているうちに免許を取って安心させてあげたい。
私には時間が無いのだ。
「え?今日も郡司さんですか?」
教習所の受付で、私は係員の女性に詰め寄った。
「他の教官に代えてもらうことはできないですか?」
「あいにく埋まってまして」
「なんであの人あんなに厳しいんですか?
ちょっとおかしくないですか?」
声を荒げて食い下がる。
まわりの白い目を感じるが、気にするものか。
結局要望は受け入れられず、私は待合所のベンチに深いため息とともに腰をおろした。
「あのー」
声をかけてきたのは、受付でのやり取りを遠まきに見ていた女性だった。
「もしかして郡司さんのこと、ご存知ないんですか?」
なま温かい爆弾をゆっくりとつかみあげた。
茶色い危険物を、もう片方の手に持つ袋へ慎重に移動させる。
よし、もう少しで爆弾処理完了だ。
私はチラリと郡司の様子をうかがった。
郡司は私に見えない方の手で、自分の太ももをパン、と叩いた。
これが合図か。
その音に反応して、教習犬が立ち上がり勢いよく吠えた。
リードを引っ張られたが、十分心構えをしていたので爆弾を落とさずにすんだ。
「郡司さん、よくしつけられてますね」
「何がですか」
「この犬は、太ももを叩くと吠えて走り出すようにしつけられている」
「何のことだか」
「郡司さん、あなただったんですね。5年前のあの事故の男性は」
それまで平然としていた郡司の顔に驚きが浮かんだ。
「ふん。人の弱みを握って形勢逆転したつもりですか。
脅してハンコ押させる気ですか」
「いいえ。郡司さんはそのままでいてください。
嫌味で厳しい教官でいてください」
郡司の顔に動揺が走る。
「郡司さんはここで厳しく指導することで、
たくさんの未来の事故を未然に防いでいる。
過去は変えられないけれど、そのぶん未来を変えようといている」
「ウンチ」
「え?」
「ほら、ウンチしてますよ」
目の前で教習犬が、また踏ん張っていた。
「これで安心して死ねるわ」
真新しい免許証を大事そうに見つめながら、
母は静かに笑った。
「でも、気をつけて散歩してよ。シロ、けっこう力が強いからね。
ほら、前にあったじゃない。
散歩中に女の子に大怪我させちゃった事故」
「ああ、あったね」
「あの犯人、会社クビになって離婚して子どもと離れ離れになったんだよねえ。
まあ、最低なことしたんだからしょうがないか」
「そうかな」
「え?」
「いや。なんでもない。ちょっと行ってくる。散歩」
実家のまわりをシロと歩く。
免許はズボンのポケットに入っている。
久しぶりの散歩で嬉しいのか、
シロは尻尾を振りながらぐいぐいと力強く歩く。
道の真ん中で、シロがふんばり始めた。
私は小さく微笑んで、手首にリードを二重に巻いた。