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【犬の短篇12】 小さなプチコ


「ま、放っておいたら衰弱死ですね」


保護施設の職員は、ひどく事務的な口調で言った。
ケージの中で小刻みに震える小さな命を見下ろしながら、
杏奈はいつの間にか泣いていた。


「プチコ、ごはんだよ」

その子犬を引き取ってから、
杏奈は栄養学の勉強にのめり込んだ。

プチコはとても小さかった。
げっそりと痩せ細り、毛がところどころ抜け落ち、
表情は虚ろで、まともに歩くことさえできなかった。
元の飼い主にまともに食事を与えられなかった影響で、
深刻な栄養失調と臓器の機能不全を抱えていた。

杏奈は、最新の栄養学や漢方から
違法すれすれのビタミン剤や怪しげな黒魔術まで
ありとあらゆることを調べ尽くし、組み合わせ、
プチコのための特製の栄養食を作ろうとした。

「プチコ、ごはんだよ」

プチコは最初、なかなか食べてくれず、
食べてもすぐ吐き出してしまった。
それでも、杏奈は諦めなかった。
何度も何度も粘り強く改良を重ね、食事を与え続けた。

ある日。
杏奈が改良した栄養食を与えると、
プチコは美味しそうに平らげてくれた。
みるみるうちに毛艶が良くなり、顔に精気がみなぎった。

これだ。
杏奈はその栄養食を、毎日与え続けた。

杏奈の家の庭。
別の犬のように元気になった子犬が、
力強く尻尾を振りながら、杏奈が投げるボールを嬉しそうに追いかけている。
「プチコ、私もう疲れたよ。いつまでやるつもり?」
杏奈は嬉し涙を拭いながら、何度も何度もボールを投げ続けた。

プチコ。
どんどん食べて、どんどん大きくなるんだよ。




一週間後。



杏奈の家の上空。
旋回するヘリコプターの中で、レポーターが叫んだ。
「いました!あそこです!
 とんでもなく巨大な犬が横たわっています!」

杏奈の特製の栄養食を食べて、
プチコはすくすく大きくなった。
三日で大人のゾウぐらいの大きさになり、
五日でティラノサウルスぐらいになり、
一週間でスフィンクスになった。

プチコの噂は、あっという間に広がった。
写真や動画がネットで拡散され、国内外のニュースで大きく取り上げられた。
プチコを見ようと世界中からたくさんの人が杏奈の家にやってきた。
プチコのグッズは飛ぶように売れ、映画化やアニメ化が決まった。

杏奈の家に黒ずくめの政府関係者が現れ、熱心に語った。
「プチコの飼育は、政府が全面的にサポートします」
政府は、杏奈の家に隣接する土地を広範囲で買い取り、
巨大な犬小屋と居住スペースを作った。
毎日出る大量の排泄物は、政府が派遣する業者が処理した。

最初は戸惑っていた杏奈だが、
みんながプチコを可愛がってくれるならと、このブームを喜んだ。

ある日。
杏奈はいつも通りプチコを散歩させていた。
町に散歩警報のサイレンが鳴り響く。
しかしその日、耳が遠くてサイレンを
聴き逃してしまった老人が外に出てきて、
運悪くプチコに踏まれて亡くなってしまった。

この事故をきっかけに、
プチコへの批判や誹謗中傷がネット上で爆発した。
こんな危険な生き物を放っておいていいのか。
多額の税金を犬1匹に注ぎ込んでいいのか。
そもそも最初からあんな犬嫌いだったんだ。
杏奈の家の周りには、「プチコ反対」「プチコを許すな」
のプラカードを掲げた市民が押し寄せた。

さらにネット上ではプチコの陰謀論が拡散した。
プチコは北朝鮮政府が軍事利用のために開発した生物兵器で、
もうすぐ凶暴化して人間を噛み殺し始める。
プチコの体内には恐ろしいウイルスが存在していて、
ヨダレに触ると人間は3日で死にいたる。

プチコへの世間の目は、日に日に厳しくなっていった。


ある日。
杏奈の家に黒ずくめの政府関係者が現れ、淡々と語った。
「心苦しいですが、選択肢はひとつしかありません」

「プチコ、ごはんだよ」

嬉しそうに尻尾を振りながら、
プチコは杏奈から出された食事を
何の疑いもなく平らげた。

そして、眠るように息を引き取った。

自衛隊の数機のヘリがプチコの亡骸を運び去っていくのを、
杏奈は呆然と見送った。


薄暗いキッチン。
杏奈は、冷蔵庫の前に立ち尽くしている。
その視線の先。
冷蔵庫の扉に貼られたコルクボードには、
たくさんのプチコの写真が飾られている。
カメラに向かって嬉しそうに尻尾を振る
プチコの写真をじっと見つめる杏奈。

杏奈は静かに冷蔵庫の扉を開く。
奥に隠してあった特製の栄養食に手を伸ばす。


「プチノスケ、ごはんだよ」


杏奈の足元では、
小さなカマキリが食事を待っている。

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