【犬の短篇5】刑事とチワワ
ひとりの子どもが誘拐された。
「身代金の受け渡し場所に警察を一人でも見つけたら、この子の命は無いと思え」
犯行グループは警告してきた。
捜査の責任者である本部長は、焦燥した顔で部下に命じた。
「あいつを呼んでくれ」
その日。
ひとりの男が公園にやってきた。
のどかな昼下がりに似合わない鋭い眼光。
彼は超腕利きのエリート刑事だ。
何も知らずに笑い合う家族づれを眺めながら、刑事は思った。
今回は、かなり厄介だ。
こういう広い公園は、警備が難しい。
できれば私服警官を配備したいが、犯人にバレれば人質が殺される。
自己保身しか頭に無く、安全策しか取らないあの本部長に、その決断はできない。
今回の犯人は、きっとそこまで読んでいる。
さらに、受け渡し場所に公園内のドッグランを指定してきたのも敵ながらグッドチョイスだ。
ドッグランに入ってくるのは、基本的に犬を連れた愛犬家だけ。
人種がかなり限定される。
中途半端な私服警官がいれば、確実に浮いてしまう。
そこで刑事は、愛犬家になりきることにした。
パーカーにスエットパンツにスニーカー。
どう見ても平凡な散歩スタイル。
そして彼が連れているのは、かわいらしいチワワ。
シェパードのような「いかにも警察犬」はまずい。
捜査本部が、ごくふつうのチワワを用意してくれた。
実は、刑事は犬を飼ったことが一度もなく、
犬の扱いに慣れていなかった。
しかしこの状況だ。
そんなことは言っていられない。
刑事は、チワワを連れてドッグランに入った。
愛犬家たちと自然に挨拶を交わしながら、
周囲をさりげなくチェックする。
あのベンチだ。
ドッグランの奥にあるベンチ。
犯行グループが指定してきた受け渡し場所だ。
ベンチには、ひとりの女性が座っている。
誘拐された子どもの母親だ。
その顔は、すでに憔悴しきっている。
「リュックに入れた金を、母親がひとりで持ってきてベンチに置け」
それが、犯人からの指定だった。
刑事はベンチから少し離れた場所に立ち、監視を続けた。
一瞬たりとも目を離してはいけない。
そして、約束の時間が来た。
母親が立ち上がる。
ベンチにリュックを残したまま、ゆっくりその場を離れる。
予定通りだ。
来る。
犯人が来る。
相手はプロ中のプロだ。
一瞬の油断が少女の命を奪う。
その時だった。
入り口のゲートから、男がひとり入ってきた。
トイプードルを連れている。
一見、普通の愛犬家。
しかし、どこか様子がおかしい。
キョロキョロと何かを探している。
間違いない。
こいつだ。
今回、刑事に与えられた任務。
それは、現場にあらわれた犯人を泳がせて尾行し、仲間と合流したところを一網打尽にして人質を救出することだった。
まずやるべきことは、この男から絶対に目を離さないように、、、
「うわーかわいいーっ!
男の子ちゃん?女の子ちゃん?」
突然、パグを連れた中年女性が話しかけてきた。
「はあ、あの、、、」
しまった。
チワワの性別は聞いていない。
「ねえ、男の子ちゃん?女の子ちゃん?」
「あの、、、それは言えません」
「え?」
「プ、プライベートですから。失礼します」
刑事はチワワのリードを引っ張り、女性から離れた。
まずい。
目を離してしまった。
あいつは、、、
いた。
男は、ゆっくりベンチへ近づいていた。
さあ、いよいよだ。
リュックを持ち去るのを見逃すわけにはいかない。
もう一瞬たりとも、、、
ふるふるふる〜〜っ!
チワワがふんばり始めた。
ウンチだ。
よりによって、どうして今なんだ。
チワワは出すものを出し終え、嬉しそうにしっぽを振っている。
刑事は急いでポケットからウンチ袋を取り出そうとした。
カチャン!
ポケットに入れていた手錠が地面に落ちた。
近くにいた若い女性が怪訝な顔をする。
「え、、、手錠?」
刑事は慌てて手錠を拾いながら、必死にごまかした。
「いや、これ、、、趣味なんです」
「趣味?」
「はい、プレイ用に」
「プレイ用?」
まずい。
女性が引いている。
刑事はそそくさと手錠をしまい、慣れない手つきでウンチを始末して、ベンチを見た。
いた!
男はまだベンチに座っている。
よかった。
男のすぐ横にはリュック。
いよいよ金を持ち去る気だ。
ここからが勝負だ。
絶対に絶対に片時も目を離さないように、、、
キャン!キャンキャン!
猛烈な勢いでチワワが吠え始めた。
別のチワワとケンカしているらしい。
勘弁してくれ。
こんな犬、もう放っておこう。
刑事は、リードを投げ捨てようとしたが、
周囲の視線を感じて踏みとどまった。
落ち着け。
俺は愛犬家だ。
「よーしよし、いい子だぞ〜」
刑事は、我を忘れて吠えるチワワをなだめ、ケンカ相手の犬と引きはがした。
ベンチを見る。
いない。
男がいない。
リュックも消えている。
まずい。
あわてて周りを探す。
あの男の姿はどこにも無い。
やってしまった。
犯人を見失った。
金も奪われた。
犯行グループは、人質をおとなしく返すような連中ではない。
金が手に入れば、おそらく子どもの命は、、、
終わった。
ドッグランの真ん中で、刑事は茫然と立ち尽くした。
しかし、その時だった。
ベンチの匂いをくんくん嗅いでいたチワワが、突然、猛烈な速さでドッグランから飛び出して行く。
チワワは、ベンチに残っていたわずかな匂いを頼りに、近くの道路で男を発見。
ちょうど男が乗り込もうとしていたミニバンの中に飛び込むと、
中にいた犯行グループ全員に次々と噛みつき、一網打尽にした。
車中にいた人質の子どもも無事救出。
あっという間に事件を解決した。
チワワは、超腕利きのエリート警察犬だった。
犯人を油断させるため、ごく普通の飼い犬を演じて様子をうかがいながら、最後にその実力を発揮したのだった。
「あいつを呼んでくれ」
本部長がそう命じたのは、刑事ではなくチワワの方だった。
刑事は、本部長のデスクに怒鳴り込んだ。
「本部長、私を信用してなかったんですか?」
本部長は刑事に言った。
「わかってくれ。安全策をとったんだ」